小原隆名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/29 09:21 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文11年(1542年)閏3月30日以前[1] |
改名 | 小原隆名 |
官位 | 中務丞 |
主君 | 大友義鑑か→大内義隆 |
氏族 | 清和源氏満季流高屋氏庶流小原氏 |
父母 | 不明 |
小原 隆名(おばら たかな/おばら たかのぶ)は、戦国時代の武将。初め大友氏に仕えたとされ、後に大内氏の家臣となり、大内水軍を率いて各地を転戦した。
生涯
小原氏について
小原氏は、清和源氏満季流高屋氏の庶流とされ、元享4年(1324年)正月付の「豊後国一宮八幡(柞原八幡宮)賀来者神人名帳事」に「小原貫首(貫首は惣領のこと)」、「小原次郎太郎」、「小原弥次郎」が見え、これが初見である[2]。
また、永享8(1436年)年6月9日、「姫岳着到次第」には「小原秀二郎」、「小原下野守」が大友氏家臣として活躍しており、大友氏に降ったのはこれ以前だろう[3]。
時代が降って大友義右の時代、彼の偏諱を受けた右並が大友家奉行人として活躍している[4]が、享禄年間、義鑑との何らかの不和により、嫡男・神五郎とともに周防国へ下向、同国の守護職・大内義隆に客将として迎え入れられた。 神五郎は義隆から偏諱を賜い隆元と名乗るなどして義隆から厚遇を受け、預置地なども任されるようになった。しかし、このことが義鑑の目に留まり、義鑑は義隆が右並らを「撫育」しているとして、大内氏と大友氏との戦いが引き起こされる原因にもなった。
その後、天文7年(1538年)に大内氏・大友氏が和睦したことで、天文8年(1539年)春に右並・神五郎も豊後国へ帰国[5]、義鑑に再度仕えることになる。隆元はこののち、義鑑からの偏諱を受け鑑元と名乗り、大友家奉行人として活躍することになった。
隆名の登場
小原隆名は、この小原右並・鑑元父子の一族として右並・鑑元父子と共に周防国へ下向したと思われ、父子の帰国後も義隆のもとで、正規の大内氏被官として小原氏の名跡を継いだ可能性が考えられている[6]。 小原隆名が登場するのは、右並・鑑元父子が帰国したのちの天文9年(1540年)であり、このころから隆名が大友水軍を率いて伊予国の守護・河野氏と戦うようになった。同年8月13日、防予諸島の忽那島を攻め、勝利を飾った[7]。
翌10年(1541年)1月12日、尼子勢との協力により、厳島神領を支配しようとした友田興藤が大内家に反旗を翻し、因島・能島・来島の村上氏をはじめとした村上海賊らをして厳島神社一帯を占領した。これを受けて、大内氏重臣の黒川隆尚は隆名に対して厳島を攻めるように命じ、隆名は200~300艘で村上海賊と開戦、厳島を奪還した。こののち、隆尚・隆名は厳島の奉行人として支配をしている。
その後も隆名は、芸予諸島の大三島・岡村島・甘崎・能島・因島を攻めて大内領とし[8]、最終的には伊予国の棚橋島に位置する棚林要害(城主は忽那通乗)に、能島村上氏の村上義益と共に攻め入ることとなった[9]。
しかし、この戦いの状況を伝えた弘中隆兼・青景隆著・杉隆宣の連署奉書には、「不慮之子細」が起こったため、安芸国沼田郡高山城の城番・神代兼任を増援として派遣するよう、義隆が命じたとかかれている。このことから、藤井崇は「不慮」を隆名の負傷・討死としており、実際に、これ以後隆名は活躍が見られなくなることから、この時に死去した可能性が高い。
脚注
出典
参考文献
- 田北学編『増補訂正編年大友史料』第4・第10・第13、1962年 国立国会図書館デジタルコレクション
- 九州文化綜合研究所大宰府調査文献班 編『大宰府・太宰府天満宮・博多史料 続中世編4 天文』九州文化綜合研究所大宰府調査文献班、1958年12月。全国書誌番号:50005460。国立国会図書館デジタルコレクション
- 藤井崇『大内義隆―類葉武徳の家を称し、大名の器に載る―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年10月。 ISBN 9784623086788。全国書誌番号: 23282508。
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