寶川石五郎
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寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年〉[1] - 1858年8月26日〈安政5年7月18日〉)は、雷部屋に所属した元力士[2]。大坂相撲時代には朝日山部屋、東京へ移行してからは粂川部屋にも所属していた。
- ^ a b 文化15年説もある。西暦換算では1817年1月、1818年説もある。
- ^ a b http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3362&l=j
- ^ この場所では他に谷嵐市藏、増位山岩之助(後の大関・境川浪右エ門)も7勝を挙げたがいずれも2敗している。
- ^ この場所で7勝1敗1休1分の成績を挙げた雲龍久吉(当時東前頭3枚目。後の第10代横綱)が優勝相当成績。他に当時西前頭3枚目の六ツヶ峰岩之助(後の大関・境川浪右エ門。先の増位山岩之助と同一人物)も7勝2敗の成績を挙げている。
- ^ 歴史群像~描かれた肖像 - おおいた情報大事典大分朝日放送、2010年6月5日放送。
- ^ 添田日誌ペリー応対・地誌。「物品ノ内米弐百俵船中ヘ被遣(つかわさる)。此持込応接場ヨリ波止場迄持運ビヲ相撲力士共御呼寄セ命セラル。」とあり、当時の幕内力士が総出で、200俵の米俵を黒船に積む任務が課せられていた事が分かる。尚、寶川は当時西前頭6枚目だった。
- ^ a b 眠るは江戸相撲の権力者たち・南蔵院(相撲記念館・史跡案内)
- ^ 古今大相撲事典(ISBN 978-4336018786)より。このコレラでは、稀代の浮世絵師だった歌川広重も命を落としている。
- ^ 寶川石五郎江戸東京博物館・収蔵品
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