宮本無二助説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 01:54 UTC 版)
江戸時代初期より、当理流の兵法家・宮本無二助藤原一真(宮本無二斎とも)と同一人物であるとも考えられている。 当理流の目録は、慶長2年(1597年)に宮本無二之助の名で細川氏家臣奥村藤左衛門尉宛(大和国生駒宝山寺蔵)、慶長3年(1598年)に宮本無二斎藤原一真の名で水田無右衛門宛(細川氏家臣安場家蔵)、慶長12年(1607年)に宮本無二助藤原一真の名で細川氏家臣友岡勘十郎宛(細川氏家臣朽木家蔵)が残されている。その他、無二助の弟子が細川氏家臣に発行した当理流目録が幾つか残されていることから、細川藩に多くの弟子がいたと考えられている。目録の内容から、当理流は単なる十手術ではなく総合武術であったことが推測できる。そのため研究者の中には、宮本無二助と新免無二を別人と考える意見もある。
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