宮後城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 宮後城の意味・解説 

宮後城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/02 06:46 UTC 版)

logo
宮後城
愛知県
蜂須賀家政生誕地碑
別名 蜂須賀屋敷、小六屋敷
城郭構造 平城
築城主 安井氏
築城年 応永年間(1394年 - 1428年
主な城主 安井重継
廃城年 不明
遺構 なし(道路拡張で撤去)
指定文化財 史跡等未指定[1]
再建造物 石碑
位置 北緯35度20分35.0秒 東経136度53分03.5秒 / 北緯35.343056度 東経136.884306度 / 35.343056; 136.884306座標: 北緯35度20分35.0秒 東経136度53分03.5秒 / 北緯35.343056度 東経136.884306度 / 35.343056; 136.884306
地図
宮後城
テンプレートを表示

宮後城(みやうしろじょう)は、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)にあった日本の城。「蜂須賀屋敷」「小六屋敷」などとも呼ばれる。

歴史

築城年は不明であるが、応永年間(1394年 - 1428年)より安井氏の居城で、天正の頃まで住んだ[2]

周囲の土居や壕を巡らし、東西60(108メートル)、南北80間(144メートル)[2]

『前野文書(武功夜話)』によれば、戦国時代に、安井弥兵衛重幸の息子安井重継が居城していた。重継の姉安井氏が嫁いだ蜂須賀正利は、蜂須賀城織田信秀との対立により奪われてしまったため、蜂須賀正勝らと共に宮後城を間借りして移り住んだ。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされ、「蜂須賀家政公誕生之地」の石碑がある[3]

その後、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い羽柴秀吉の砦として修築されたが、砦部分は和睦後に破却された。

江戸時代寛永年間に家政の誕生地ということで本殿が再建され、参勤交代のときに徳島藩の者は宮後村に立ち寄ったという[2]

昭和43年(1968年)、県道江南犬山線が屋敷を通ったため古井戸は埋められ[2]、遺構は残っていない。

脚注

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宮後城」の関連用語

宮後城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宮後城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宮後城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS