宝蔵院覚禅房胤栄とは? わかりやすく解説

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胤栄

(宝蔵院覚禅房胤栄 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 07:11 UTC 版)

『つきの発明』(月岡芳年『月百姿』)胤栄は三日月形の槍を開発したという

胤栄(いんえい、大永元年〈1521年〉 - 慶長12年8月26日1607年10月16日〉)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武術家。奈良興福寺の子院・宝蔵院の院主で、宝蔵院流槍術の祖である。房号は覚禅房[1]

生涯

僧としての経歴

大永元年(1521年)、興福寺の衆徒・中御門胤永の次子として生まれる[2]。中御門氏は興福寺の衆徒の中でも、寺中にあって興福寺別当の武力を担う衆中であった[3]。その出自は、山城国相楽郡加茂郷地侍とみられる[3][注釈 1]

興福寺の子院[6]である宝蔵院に入った胤栄は、天文2年(1533年)8月に得度して法師となった[7]。この時の宝蔵院院主は、尾田清経の子である懃禅房法印胤乗(当時は律師)である[2]

天文12年(1543年)の3月から4月にかけて、粗暴な修行態度の者5人が下臈衆の集会や学侶集会で問題となっており、その中には「覚禅房」(胤栄)の名が含まれている[8]。この5人のうち、張本人とされる1人は僧籍を剥奪され、胤栄ら残る4名は加行のやり直しにより寺への登高を許されることとなった[8]。翌天文13年(1544年)6月、胤栄は報恩講月次に懃仕している[9]

天文19年(1550年)、胤栄は大法師となり[10]永禄3年(1560年)に擬得業、永禄6年(1563年)に擬講となる[11]元亀元年(1570年)、権律師となり、天正2年(1574年)に律師、天正5年(1577年)に権少僧都となった[12]

天正16年(1588年)の若宮御祭では、西発志院松賢房擬講が頭役を務めたが、渡辺一郎によると、胤栄が頭代としてそれを後見したという[13][注釈 2]。それに対し永島福太郎は、胤栄の師である宝蔵院禅実房僧都が頭代として西発志院に副えられたとしている[15]。この頃の胤栄について永島は、壮年にもかかわらず部屋住みの身であったとし、宝蔵院の院主となったのはこれ以降のこととする[15]。この後、文禄元年(1592年)、胤栄は少僧都となった[16]

文禄4年(1595年)に検地太閤検地[17])が行われ、春日社兼興福寺領は2万1000石余り、そのうち寺門領は1万5033石余とされた[16]。この時、宝蔵院には35石3斗5升が割り当てられている[18]。翌慶長元年(1596年)2月、胤栄は法印となった[19]

武術家としての胤栄と晩年

胤栄は十文字鎌(十文字槍)を用いる宝蔵院槍術の祖であるが[20]、その術を創案した時期や、どのような武術修行を行ったかについては明確ではない[9]

興福寺の衆徒の家柄は寺社の警備や軍事に関わることから、衆徒・中御門家に生まれた胤栄も武芸に縁があったと考えられる[21]。『家元諸伝秘録』(満田家文書)に、初め中御門氏と小山氏[注釈 3]に兵法を学んだとあることから、幼少期から長刀長巻などの長道具に習熟していたとも推測される[9]

胤栄の武術の師については様々な話が伝わるが、確かなことは大西木春見から新当流(神道流[22])兵法を学んだことと上泉信綱から新影流(新陰流[11])兵法を学んだとみられることのみとされる[23]

胤栄から金春氏勝に与えられた印可状(後述)の系図は、飯篠盛近から連なる新当流兵法の伝系となっており[24]、大西木春見を師とすることもそこに記される[25]。飯篠盛近は長道具に優れたとされる人物で、その系統は槍や長刀の相伝を重んじていたと考えられる[24]

上泉信綱に師事したことについては『武芸小伝』に記述があり、それによると胤栄は柳生宗厳とともに上泉信綱から刀術を習ったという[24][26]。胤栄が上泉信綱から教えを受けたことを示す根本史料は存在しないが、そうした所伝があることや、永禄頃に信綱が上洛し公家衆や武家衆に兵法などを伝えていること、柳生宗厳が信綱から相伝を受けていることなどから、胤栄が新影流兵法を学んだのは確かであるとされる[27]。なお、永禄8年(1565年)9月、胤栄は信綱から9箇までの指南を許される部分印可を得たといわれ[28]、それを示す印可状の写しが現存しているが、これについては鵜呑みにはできないとされる[27]

慶長4年(1599年)閏3月と慶長7年(1602年)3月の2度、胤栄は金春氏勝に印可状を与えている(いずれも宝山寺所蔵)[29]。氏勝は能役者[30]・金春安照の子で、父・安照は豊臣秀吉の庇護を受けて500石を領した人物だった[31]。氏勝は胤栄に師事したほか、柳生宗厳から新陰流兵法を、穴沢浄見から新当流長太刀を、上田吉之丞から大坪流馬法を学んでいる[32]。この金春氏勝に与えた慶長4年の印可状が、現存する胤栄の印可状として最古のものとなる[33]。また、与えた相手は不明だが、慶長10年(1605年)に胤栄は印可状を発給している[34]。この印可状は所有者を転々としたらしく、伝受者の名前が切り取られ、掛物に加工されている[34]

胤栄の門人はこの他、中村市右衛門直政(尚政[35]中村派の祖[35])、高田又兵衛吉次高田派の祖[36])、松崎助右衛門統学、山本藤蔵家次、尾崎左近大夫などがいる[37]

伝えるところによると、胤栄は釈門に武芸は禁物であるとして中村直政に武具を譲り、宝蔵院から武具を取り払ったという[38]。また、後住の僧が武芸を学ぶことも禁止したといわれる[26][39]

慶長12年(1607年)8月26日、胤栄は死去した[40]。享年87[40]住職の地位を継いだ胤舜は、その後胤栄の弟子から槍を学び、宝蔵院流槍術を発展させている[41]

武術に関する所伝と真偽

胤栄が十文字槍を扱うようになった経緯については、様々な伝説がある[42]。そのうちの1つとして次の話がある。

修行中の胤栄はある時、猿沢の池で魚を突いて練習していたが、なかなか突くことができない[42]。水面を見ると三日月が映っており、それを見た胤栄は、槍の穂に三日月型の鎌を付ければ敵を逃すことがないと悟り、十文字槍を発明したという[42]

この他、夢に現れた異相の神人のお告げで地中から縦横鉾(鎌槍)を掘り出し、成田大膳大夫を名乗って現れたその神人から縦横鉾の法を学んだという話や(『縦横鎌槍序』)、大膳大夫盛忠から素槍を習うもそれには飽き足らず、春日神社の宝殿にあった十文字型の鉾で修行して十文字槍の術を作ったという話もある(『宝蔵院流秘伝』)[43]

しかし、当時十文字槍は珍しいものではなく、胤栄が学んだ新当流でも十文字槍は使われている[44]。これらの伝説は宝蔵院流を神秘化するため作られたものであって、史実とは考えられない[44]

また、胤栄は刀術の柳生宗厳・長刀の穴沢盛秀・素槍の五坪兵庫とともに表拾五ヶ条の形を作ったといわれるが、宝蔵院流の表の形の三要素である太刀合・長刀合・槍合から作られた話であると島田貞一は述べる[27]

逸話

胤栄は『多聞院日記』の著者・英俊と親交があった[8]。天正19年(1591年)5月、野田の四恩院で恒例の千部論があり、胤栄と英俊は隣同士に座って雑談した[45]。この時、胤栄は71歳、英俊は74歳である[16]。2人は若い頃から知音昵近だったが、「かつてこの論に出席した人々も今は皆見ることができなくなり、親類や召使、出入の衆も皆死んでしまった。自分たちが今も存命であることが不思議に思え、2人で涙を流した」と英俊は記している[45]

脚注

注釈

  1. ^ 『興福寺元衆徒中御門系図』によると、中御門氏は元々坂口姓を名乗り、坂口良顕(正和3年〈1314年〉没)の養子となった古市氏出身の良円が跡を継いで、中御門姓を名乗ったという[4]。以後、古市氏同様、「胤」を通字として用いたとされる[4]。なお、同系図は偽文書として知られる椿井文書の作者・椿井政隆の作となる[5]
  2. ^ 『多聞院日記』天正16年11月27日条にも「頭代宝蔵院覚禅房僧都」とある[14]
  3. ^ 小山氏については不詳[9]

出典

  1. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 7, 20; 渡辺 1981, p. 3.
  2. ^ a b 渡辺 1981, p. 3.
  3. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, p. 21.
  4. ^ a b 興福寺元衆徒中御門系図”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. 2022年3月18日閲覧。
  5. ^ 馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』中央公論新社中公新書〉、2020年、21頁。ISBN 978-4-12-102584-5 
  6. ^ 渡辺 1981, p. 2.
  7. ^ 渡辺 1981, pp. 3, 5.
  8. ^ a b c 渡辺 1981, pp. 6–7.
  9. ^ a b c d 渡辺 1981, p. 7.
  10. ^ 渡辺 1981, p. 5.
  11. ^ a b 渡辺 1981, p. 9.
  12. ^ 渡辺 1981, p. 12.
  13. ^ 渡辺 1981, p. 14.
  14. ^ 辻 1938, p. 154.
  15. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, pp. 24–25.
  16. ^ a b c 渡辺 1981, p. 15.
  17. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 25.
  18. ^ 渡辺 1981, p. 16.
  19. ^ 渡辺 1981, p. 17.
  20. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 7, 10, 20.
  21. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 7–8.
  22. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 6.
  23. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 8–9.
  24. ^ a b c 奈良市武道振興会 1980, p. 8.
  25. ^ 渡辺 1981, p. 8.
  26. ^ a b 近藤瓶城 編「武芸小伝」『改定史籍集覧第十一冊』近藤出版部、1906年、86–87頁。全国書誌番号: 50001535https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920318/163 
  27. ^ a b c 奈良市武道振興会 1980, p. 9.
  28. ^ 渡辺 1981, pp. 9–10.
  29. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 25–27; 渡辺 1981, pp. 19–21.
  30. ^ 大日本人名辞書刊行会 編『新版大日本人名辞書 上巻』大日本人名辞書刊行会、1926年、1069頁。全国書誌番号: 43036189https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969143/537 
  31. ^ 渡辺 1981, p. 11.
  32. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 13.
  33. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 26.
  34. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, pp. 28–29.
  35. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, p. 13; 渡辺 1981, p. 73.
  36. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 13; 渡辺 1981, p. 75.
  37. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 13; 渡辺 1981, p. 21.
  38. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 31.
  39. ^ 奈良市武道振興会 1980, p. 14.
  40. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, pp. 7, 20; 渡辺 1981, p. 21.
  41. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 14–15; 渡辺 1981, pp. 24–26.
  42. ^ a b c 奈良市武道振興会 1980, p. 10.
  43. ^ 奈良市武道振興会 1980, pp. 10–11.
  44. ^ a b 奈良市武道振興会 1980, p. 11.
  45. ^ a b 辻 1938, pp. 296–297; 渡辺 1981, p. 15.

参考文献

関連項目

漫画

外部リンク




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