宝蔵院覚禅房胤栄とは? わかりやすく解説

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胤栄

(宝蔵院覚禅房胤栄 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:48 UTC 版)

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『つきの発明』(月岡芳年『月百姿』)胤栄は三日月形の槍を開発したという

胤栄(いんえい、大永元年(1521年) - 慶長12年8月26日1607年10月16日))[1]は、安土桃山時代興福寺衆(僧兵)・武術家。覚禅坊。興福寺子院の宝蔵院(寶藏院)院主。

生涯

興福寺衆徒・中御門胤永の次男として生まれ、宝蔵院へと入った[2][3][注釈 1]

それまでの素中心の槍術に対し、十文字槍を使用した[要出典]宝蔵院流槍術を始めた[1]柳生宗厳の薦めでともに[要出典]上泉信綱の弟子となり新陰流剣術を学び、槍術を大膳大夫盛忠に学ぶ[1]など、多くの師に付いたと伝えられるが、中でも天真正伝香取神道流大西木春見の影響が強く表れている。素槍に比べ槍としての攻防を多様にする十文字鎌槍の創始は当時の槍術には画期的なものであった。

晩年は僧侶が殺生を教える矛盾を悟り槍術から離れ、全ての武具は高弟の中村尚政に与え、僧としての活動を主にした。二代目を胤舜が継いだ。他の門弟には下石三正、礒野信元がいる。1607年死去。享年87。

脚注

注釈

  1. ^ 『興福寺元衆徒中御門系図』によると、中御門氏は元々坂口姓を名乗り、坂口良顕(正和3年〈1314年〉没)の養子となった古市氏出身の良円が跡を継いで、中御門姓を名乗ったという[3]。以後、古市氏同様、「胤」を通字として用いたとされる[3]。また、同系図は偽文書として知られる椿井文書の作者・椿井政隆による作となる[4]

出典

  1. ^ a b c 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』上巻、法蔵館、1988年1月、65頁。
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典. “宝蔵院胤栄”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年3月15日閲覧。
  3. ^ a b c 興福寺元衆徒中御門系図”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. 2022年3月15日閲覧。
  4. ^ 馬部隆弘 『椿井文書―日本最大級の偽文書』 中央公論新社中公新書〉、2020年、21頁。ISBN 978-4-12-102584-5 

関連項目

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