安藤又三郎
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安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年)6月1日[1] – 1955年(昭和30年)2月4日[要出典])は、日本の鉄道官僚。岐阜県大垣市長。
経歴
大垣市出身[1]。教育者、漢学者であった安東老山の次男[2]。高等文官試験(行政科)に合格、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業[1]。学生時代、佐竹三吾らとともに濃飛学寮(現・岐阜県学寮)の前身とも言うべき西濃出身学生の寄宿舎「到道館」を設けた[2]。鉄道作業局書記、統監府鉄道管理局参事、朝鮮総督府鉄道局参事を歴任[1][3]。
1916年に濃飛学寮が創立されるとその運営に携わり、1928年から1937年まで理事、1937年からは第2代理事長を務めた(初代は満鉄総裁などを歴任した野村龍太郎)[2]。
1923年(大正12年)3月より南満洲鉄道株式会社理事に就任し[4]、翌月には京城管理局長を兼ねた[5]。
1929年(昭和4年)からは金剛山電気鉄道株式会社専務取締役を務めた[1]。その後、自動車投資株式会社監査役となった[1]。
1945年(昭和20年)、官選最後の大垣市長(第4代)に選出され、翌年まで在任した。
大垣出身者の親睦団体「大垣青年会」会長や、大垣出身師弟の育英団体「大垣養成社」社長も務めた[2]。
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年。
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