女公爵アンヌ・ド・ブルターニュ
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「ブレスト城」の記事における「女公爵アンヌ・ド・ブルターニュ」の解説
ブルターニュ公位継承権者ロアン子爵がブルターニュのガンガンを1489年1月10日に占領したことから、フランス王シャルル8世の目はブルターニュ公国に向けられた。ブレストへの危惧から、ブルターニュ女公爵アンヌはブレストを強化するようKérousy領主に通達したが、ロアン子爵に城門は開かれた(疑いようも無く指揮官の裏切りによるもの)。 アンヌは前任者のように、当初イングランドと同盟した。新アングロ=ブルトン同盟は海上を封鎖する22隻の船舶と高錬度の陸軍を率いコンカルノーとブレストをイングランド王ヘンリー7世の手元に戻した。しかし、フランスの強力な部隊は城を再び攻城戦で取り戻し、イングランドの艦隊と陸軍は撤退した。 城がフランス王国の支配下であることを示すため、シャルル8世はフランスの紋章をブレスト城の正門ラベリンの門に掲げるよう命じた。 女公爵アンヌは、1491年12月6日にシャルル8世と政略結婚、しかしそのシャルル8世がうっかり鴨居に頭をぶつけ亡くなったため、1499年1月17日に後任のフランス王ルイ12世が政略結婚を引き継ぎ、城はフランス王室の統治下に組み込まれた。
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