天応元年の征夷
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「日本の古代東北経営」の記事における「天応元年の征夷」の解説
天応元年1月10日(781年2月8日)、藤原小黒麻呂が陸奥出羽按察使を兼任、1月15日(2月13日)には軍粮を進上した印旛郡大領丈部牛養と那賀郡大領宇治部全成に外従五位が授けられた。 天応元年4月3日(781年4月30日)、光仁天皇は譲位して桓武天皇が即位した。 天応元年5月24日(781年6月20日)、小黒麻呂は新帝桓武天皇に対して奏状を送り、軍の解散を事後報告するとともに凱旋のために入京したいことを申請した。奏状を受け取った桓武天皇は6月1日(6月26日)に伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代らの一人の首も取らないまま軍を解散し、賊4000人余りに対して斬首したのは70人余りにであるのに凱旋を申請した小黒麻呂らを「たとえ旧例ありたも、朕取らず」と厳しく叱責する勅を発し、内蔵全成と多犬養のどちらか一人を入京させて事情を説明するよう命じている。 天応元年8月25日(781年9月17日)、征東大使藤原小黒麻呂が征夷を終えて入京した。
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