大宅光房
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)
兼仗大宅光房におほせてその頸を斬しむ。 「兼仗」については先述のとおり。藤原宗忠の日記である『中右記』の、寛治7年(1193年)7月30日条と、康和4年(1102年)7月28日条に、義家郎党の「相撲人」として書かれており、康和4年(1102年)7月28日条には、「相撲が強いと言われているが、もっと骨法を身に付けなければ…」との意味の批評が書いており、関東の武士ではなく、京武者であることがわかる。
※この「大宅光房」の解説は、「奥州後三年記」の解説の一部です。
「大宅光房」を含む「奥州後三年記」の記事については、「奥州後三年記」の概要を参照ください。
- 大宅光房のページへのリンク