圓徳寺_(大阪市生野区)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 圓徳寺_(大阪市生野区)の意味・解説 

圓徳寺 (大阪市生野区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 13:58 UTC 版)

圓徳寺 えんとくじ
所在地 大阪府大阪市生野区巽中4-8-26
位置 北緯34度38分39.7秒 東経135度33分2.7秒 / 北緯34.644361度 東経135.550750度 / 34.644361; 135.550750座標: 北緯34度38分39.7秒 東経135度33分2.7秒 / 北緯34.644361度 東経135.550750度 / 34.644361; 135.550750
山号 樹法山
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 長享2年(1488年
開基 蓮如
法人番号 5120005000714
圓徳寺
圓徳寺 (大阪府)
テンプレートを表示

圓徳寺(えんとくじ)は、大阪府大阪市生野区にある真宗大谷派寺院

歴史

長享2年(1488年)、郷士・上場(うえば)又三郎正欽(またさぶろうまさのり)が、蓮如を招き、自邸を寺に改めて創建された。

正欽は当時、大地村(現在の大阪市生野区巽中3丁目、4丁目付近)に居住していた地侍で、室町幕府第9代将軍=足利義尚の配下に属し、江州の坂本に於いて佐々木高頼と戦い、その後、世の中の無常を感じ、本願寺第8世の蓮如上人に帰依して僧侶となり、名を法欽と給わった。そして、自宅を寺としたのが始まりである。

室町時代足利義尚ゆかりの寺。

元亀元年(1570年)、本願寺十一世・顕如上人の時に、石山合戦が勃発し、当時の圓徳寺第4代目住職・了法が門徒を引き連れ加勢した。

この時、了法の忠勤が抜群だった為、顕如上人より『顕』の一字を給わり、了法を顕了と改めた。

以後、圓徳寺は代々の住職が『顕』の字を名前に用いる事が許された。

昭和63年(1988年)に圓徳寺開創500年を迎えたため、前年より本堂の大改修が行われた。

また、平成10年(1998年)には、山門(大門)や釣鐘堂の大改修が行われた。

令和元年(2019年)10月20日、第19代目に住職が継職された。

第18代目の住職は、文学博士上場顕雄(うえば あきお / けんゆう)氏。

伽藍

太鼓堂、釣鐘堂、本堂など。

文化財

◯井原西鶴が著した「椀久一世の物語」に圓徳寺が登場する。

今も圓徳寺には、椀屋久右衛門寄進の朱塗りの椀家具セット・十人前が多くの寺宝とともに所蔵されている。

◯六字名号(南無阿弥陀仏)

◯親鸞聖人絵像

◯聖徳太子絵像

以下、省略。

◯圓徳寺の銀杏の木・楠の木は、大阪市の保存樹に指定されている。

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  圓徳寺_(大阪市生野区)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「圓徳寺_(大阪市生野区)」の関連用語

1
90% |||||

2
18% |||||

3
14% |||||

圓徳寺_(大阪市生野区)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



圓徳寺_(大阪市生野区)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの圓徳寺 (大阪市生野区) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS