名古屋玄医
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 10:20 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年3月)
|
名古屋 玄医(なごや げんい、寛永5年3月21日〈1628年4月20日〉 ‐ 元禄9年4月18日〈1696年5月18日〉)は、江戸時代前期の医師である。古医方の祖として知られる。字は閲甫または富潤。号は丹水子、宜春庵、桐渓。姓は名護屋とも表記される。
経歴・人物
後に、明の喩嘉言が著した『傷寒尚論』等を読み医学を志した。この事によって、当時盛んだった五世派の李朱医学を排し、張仲景の『傷寒論』を参考にして古医方を唱えた。晩年は手足の不随等に苦しんだが、多くの医学に関する著書を著した。
代表の著書に『難経註疏』『医方問余』等があった。
外部リンク
名古屋玄医と同じ種類の言葉
- 名古屋玄医のページへのリンク