古賀 毅とは? わかりやすく解説

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古賀毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 00:57 UTC 版)

古賀 毅(こが つよし、1877年7月[1][2] - 1968年1月)は、日本教育者

人物・経歴

福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身[1]で、古賀生三の子[2]。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている[3]。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校[1]、1899年7月第五高等学校文科[4]を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業[5][2]

青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任[1]。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長[1]。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力[1][3]。新校舎は1930年に竣工し、戦後も後身校である鹿児島県立甲南高等学校の校舎として使用されている。1930年11月福岡県中学修猷館館長に就任し、1937年8月退任[6]。その後、福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)校長に就任し、1941年3月退任[2]

正四位勲四等に叙せられる[2]大豊建設東洋通信機新日本電気などの会社役員を務めた古賀温(すなお)は長男[2][3][7]

出典

  1. ^ a b c d e f 南日本新聞社編『郷土人系 中』春苑堂書店、1969年、117頁。
  2. ^ a b c d e f 『人事興信録第13版』(人事興信所、1941年)コ-82頁
  3. ^ a b c 「安藤照の彫刻 半世紀ぶり母校・甲南高へ モデルは二中校長」『南日本新聞』1992年9月16日朝刊
  4. ^ 『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校、1936年)189頁
  5. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名233頁
  6. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)歴代総受持・館長15頁
  7. ^ 『人事興信録第24版上巻』(人事興信所、1968年)こ-115頁



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