医学校の校長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:56 UTC 版)
明治6年(1873年)7月、文部理事官・田中不二麿に随行していた欧州視察中の長与専斎と再会し、医学東校の解剖学教授として招聘され、ドイツ人解剖学者のヴィルヘルム・デーニッツを伴って帰国。文部省出仕を命じられ、医学校に奉職した。明治7年(1874年)12月、デーニッツと共に東京医学校教授(東京大学医学部の前身)に任ぜられたが、間もなく退官した。明治8年(1875年)、京都療病院に奉職し、明治12年(1879年)に附属医学校(京都府立医科大学の前身)の創設にあたってその監学(校長)となった。
※この「医学校の校長として」の解説は、「萩原三圭」の解説の一部です。
「医学校の校長として」を含む「萩原三圭」の記事については、「萩原三圭」の概要を参照ください。
- 医学校の校長としてのページへのリンク