別所大塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/28 06:51 UTC 版)
別所大塚古墳 | |
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![]() 墳丘遠景(右に後円部、左に前方部) |
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所属 | 別所古墳群 |
所在地 | 奈良県天理市別所字大塚 |
位置 | 北緯34度36分38.48秒 東経135度50分18.45秒 / 北緯34.6106889度 東経135.8384583度座標: 北緯34度36分38.48秒 東経135度50分18.45秒 / 北緯34.6106889度 東経135.8384583度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長125m 高さ15m(前方部) |
埋葬施設 | 横穴式石室(内部に組合式石棺) |
出土品 | (伝)人骨・金銅製鈴・鉄鏃・甲・鉄刀・土器・焼米・埴輪 |
築造時期 | 6世紀代 |
史跡 | なし |
地図 |
別所大塚古墳(べっしょおおつかこふん)は、奈良県天理市別所にある古墳。形状は前方後円墳。別所古墳群を構成する古墳の1つ。史跡指定はされていない。
概要
奈良盆地東縁、平尾山丘陵西麓の丘陵先端部を切断して築造された大型前方後円墳である。発掘調査は実施されていない。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方向に向ける。墳丘は2段築成[1]。墳丘外表では拳大の石が散乱するため葺石が存在した可能性があるほか、埴輪片が採集されたことがあるという[2]。墳丘くびれ部で造出は認められない[3]。また墳丘周囲には周濠・外堤が巡らされる(前方部東側では切り通しのみ)[1]。埋葬施設は後円部における横穴式石室であるが、現在は破壊されており、大きな採土跡が遺存する[1]。付近の大型前方後円墳の石上大塚古墳・ウワナリ塚古墳(いずれも天理市石上町)と同様の大型石室であったと推測される[1]。『大和國古墳墓取調書』では石室から幅約3メートル・長さ4メートル以上の大型組合式石棺が出たことが知られるほか[3][4]、人骨・金銅製鈴数個・鉄鏃・甲・鉄刀・土器・焼米が出土したという(現在は所在不明)[3][1]。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀代と推定される[4]。後期古墳としては奈良県内で有数の規模の古墳になる[1]。付近では別所大塚古墳のほかにも後期大型前方後円墳として石上大塚古墳・ウワナリ塚古墳が分布するが、3基は同様の墳丘規模・石室規模・築造時期であることから類縁関係にあると想定され、一帯の群集墳の盟主墳として物部氏の首長墓とする説が挙げられている[3][5]。
遺跡歴
墳丘

墳丘の規模は次の通り[1]。
- 墳丘長:125メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:85メートル
- 高さ:14メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 幅:105メートル
- 高さ:15メートル
墳丘は前方部東側で尾根端部を切断して構築される[1]。墳丘周囲には周濠が巡らされるが完周せず、前方部東側では切り通しのみで周濠は認められない[1]。
なお山の辺小学校西側には、古墳出土と伝わる大型石材が残る[2]。
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墳丘
右にくびれ部、左奥に後円部。 -
横穴式石室跡
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
脚注
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
- 地方自治体発行
- 「別所大塚古墳」『天理市の文化財』天理市教育委員会、1990年。
- 「別所大塚古墳」『天理の古墳100』天理市教育委員会、2015年。
- 「別所大塚古墳」『物部氏の古墳 石上・豊田古墳群と別所古墳群』天理市教育委員会、2023年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
- 事典類
- 「別所大塚古墳」『奈良県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系30〉、1981年。ISBN 4582490301。
- 杉山秀宏「大塚古墳 > 別所大塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。 ISBN 4490102607。
関連文献
(記事執筆に使用していない関連文献)
- 梅原末治「大和丹波市町北部の古墳に就いて」『人類學雜誌』第33巻第2号、日本人類学会、1918年。
- 「別所大塚古墳」『石上・豊田古墳群II』奈良県教育委員会〈奈良県文化財調査報告書第27集〉、1976年。
- 白石太一郎「古墳からみた物部氏」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報』第20号、大阪府立近つ飛鳥博物館、2017年。
- 小栗明彦「物部氏の古墳6基の詳細検討 -塚山古墳・ダンゴ塚古墳・別所鑵子塚古墳・別所大塚古墳・石上大塚古墳・岩屋大塚古墳-」『和の考古学 -藤田和尊さん追悼論文集-』ナベの会〈ナベの会考古学論集第1集〉、2019年。
外部リンク
- 別所大塚古墳 - 天理市ホームページ
- 別所大塚古墳のページへのリンク