兼平氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 14:24 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動
![]() |
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年4月)
|
兼平氏 | |
---|---|
![]() |
|
本姓 | 津軽氏支流[1] |
家祖 | 兼平盛純 |
種別 | 武家 士族 |
出身地 | 陸奥国兼平村(弘前市兼平) |
主な根拠地 | 陸奥国 |
著名な人物 | 兼平綱則 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
兼平氏(かねひらし)は、津軽氏の支流で戦国時代から江戸時代にかけて同家に仕えた。
歴史
大浦氏当主大浦盛信・政信兄弟の弟盛純が領地兼平村に兼平館を築き、その名を姓にしたことに始まる(南朝の遺臣・兼平中書雅則の名跡を継がせたとの説もある)。盛純の嫡男綱則は、森岡信元・小笠原信浄と並び大浦三老の一人として、主君津軽為信の津軽統一戦の際に数々の武功を挙げた。その孫信孝の代には、「津軽」姓も許された。しかし、船橋騒動にて新参者の船橋長真・乾安儔らと対立した。その結果、寛永13年(1636年)1月喧嘩両成敗として乳井建定と共に長州萩藩毛利家お預けとなり、信孝が同地で没したため、本流は断絶となった。後に綱則の末子源八が後を継ぎ、再興された。
歴代当主
系図
脚注
参考文献
- 兼平氏のページへのリンク