児童教育研究家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/11 04:22 UTC 版)
定年後には「児童教育研究家」の肩書で活発に教育評論活動を行い、さまざまな都市で講演などを行った。1972年(昭和47年)にはTBSの「母と子の教育相談」に教育評論家の丸木政臣らとともにレギュラー出演した。同年にあすなろ書房から出した『つしま丸のそうなん 沖繩の子どもたち』は、第19回産経児童出版文化賞に推薦されている。1974年(昭和49年)には学校法人明星学園の理事となった。1978年(昭和53年)には子どもの文化研究所の所長となった。1985年(昭和60年)には東京女子医科大学病院に検査入院して肺線維症と診断され、1986年(昭和61年)10月10日に清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。78歳没。
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