何とか決勝へは進んだが
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/31 08:42 UTC 版)
「田中博 (競輪選手)」の記事における「何とか決勝へは進んだが」の解説
1976年、地元バンクの前橋競輪場で第19回オールスター競輪が行われ、6・4・9・7の節間成績で全くいいところがなかった福島に対し、田中は5・5・1の成績で何とか決勝へと駒を進めた。地元勢の中では田中だけが決勝進出を決めていた。 しかしレースのほうは、完全優勝がかかった菅田順和と、無冠返上を期す福島と同期の藤巻昇の叩きあいとなり、藤巻が最終1センターにおいて菅田を叩ききった時点でほとんどこのレースの大勢は決した形となった。藤巻は弟・清志とワンツーを決め、一方田中は何とか3着に入ったものの、ただ流れ込んだだけといった内容であった。 田中は福島ら地元勢が軒を並べて決勝を前にして脱落する中、何とか決勝進出という最低ノルマだけは果たしたかったと後述。つまり優勝争いを演じるだけの力は既に残っていなかったと考えられる。そして田中はこの後、GIにおける決勝進出はとうとう一度も果たすことができなかった。 その後田中は2002年8月まで現役を続ける。通算勝利数は771勝で、三強の中では一番通算勝ち星が多い。しかし三強の中で最も地味な存在であったのもまた田中であり、福島や阿部のような饒舌さも持ち合わせていなかった。 しかし、「頭脳の福島」、「華麗な阿部」と評すならば、田中は三強の中では一番勝負根性があり、とりわけ福島に対するライバル心は相当なものであった。
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