伊藤正文 (建築家)とは? わかりやすく解説

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伊藤正文 (建築家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 16:38 UTC 版)

伊藤 正文(いとう まさぶみ、1896年3月23日 - 1980年12月3日)は、日本建築家旧制大阪商科大学大阪市立美術館などの作品で知られる。学位は、工学博士早稲田大学1939年)。

概要

大阪市建築課長として、学校施設美術館などを多く手掛けた建築家辰野片岡建築事務所を経て大阪市技師着任。退職後、大阪市立大学家政学部教授を務める。作品には、旧制大阪商科大学昭和初期学者群、大阪市立美術館(実施設計監理)などがある[1]

経歴

千葉県出身。早稻田大學高等豫科理工科を経て、1917年に早稻田大學大學部理工科建築学科得業(現在の早稲田大学創造理工学部建築学科卒業)、学業優秀賞を受賞。大阪市技手を経て、1919年に片岡建築事務所入所。1924年に大阪市土木部建築課に入る[2]。建築技師として大阪市の施設建設に当った。特に1934年の室戸台風では大阪市内にある木造校舎の多くが倒壊したため、RC造校舎での復興事業に従事した[3]。後に学位論文「小学校校舎の衛生に関する研究」をまとめている。

業務の傍ら、本野精吾上野伊三郎らと日本インターナショナル建築会を結成した(1927年 - 1933年)。

1939年、43歳で大阪市を退職し、自営(伊藤正文建築事務所)。この頃、早稲田大学、神戸高等工業学校で講師を務める。戦時中は奈良に疎開。戦後は建築設備研究所長などを経て、1949年4月から1959年3月まで大阪市立大学家政学部教授を務めた[4]

作品

1921年、建築設計競技前田健二郎案が当選したが、実施されたデザインは大幅に異なる。当時の営繕課長・波江悌夫は「立体図案は伊藤正文氏の作である」と回想している[5]

著書

  • 建築保健工学 第1部・第2部(工業図書、1938-39年)
  • 国民学校(相模書房、1941年)
  • 産業建築衛生(東洋書館、1944年)
  • 学校建築小論(相模書房、1951年)

註釈

  1. ^ 伊藤正文 – 大阪文化財ナビ”. 2022年12月13日閲覧。
  2. ^ 堀勇良『近代日本建築人名総覧』(中央公論新社、2021年)、『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』(1938年), doi:10.11501/1207487
  3. ^ 伊藤正文「大阪市小學校復興計畫上の諸問題」『建築雑誌』第632号、日本建築学会、1937年11月、1377-1388頁、ISSN 00038555NAID 110003781185  (要購読契約)
  4. ^ 堀勇良『近代日本建築人名総覧』、高杉酒造三郎『建築人国雑記』(日刊建設工業新聞社、1975年)p75。
  5. ^ 児島大輔「大阪市立美術館の設計思想」(PDF)『大阪市立美術館紀要』第19号、2019年3月、NDLJP:11718863 

関連項目

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