伊沢修二の勘違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 04:43 UTC 版)
伊沢修二は、1911年(明治44年)自らの還暦を記念して『楽石自伝教界周遊前記』を口述し出版した。その中で、次のように音楽取調掛時代を回想している。 「右の如くにして言葉も大概は出来、かつ取調べた曲もようやく増加したからして、今度はこれに日本国語の唱歌を附することとしたが、これは非常な大問題であって、単に歌を作るといふことさへ容易では無いのに、取調掛の要求では、なお又曲意に合した歌を作るといふのみならず、句数字数が合はなければ、折角作歌者がいかなる名歌を作つても何の役にも立たぬ。その最得意とする好所をも改作しなければならぬのである。そこで歌も作る曲意も解る、句数字数も自在に変化し得るという作歌者を得る必要が起こった。しかして最初に盡力してくれた人は稲垣千穎氏である。此人は惜しいことに最早故人となってしまつたが、歌が上手で随分多くの氏の作にかかる歌がある。」 「もはや故人となってしまった」とあるのは伊沢の思い違いで、前項で述べたようにこの時稲垣は存命中だった。伊沢修二の剛胆で細部にこだわらない性格をあらわすエピソードである。
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