仲田信亮
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仲田 信亮(なかだ[1] しんすけ[2]、天保9年(1838年) - 1898年(明治31年)1月21日)は明治時代の栃木県官吏、実業家。
経歴
天保9年(1838年)に生まれた[3]。通称は精作[3]、諱は則[4]。江戸時代には江戸幕府徒目付を務めた[4]。
明治2年(1869年)9月26日下野国足利郡勧濃村平民として岩鼻県に出仕し[5]、勧農課に属した[4]。明治4年(1871年)6月日光県に転じ、11月栃木県に合併以後も引き続き勤務した[5]。明治5年(1872年)信彰から信亮に改名した[3]。1882年(明治15年)1月から1883年(明治16年)12月まで下都賀・寒川郡長を務めた[6][7]。
明治4年(1871年)7月県に対し養蚕業振興を建言するなど、早くから殖産興業政策に関わった[3]。1884年(明治17年)5月岩崎民三郎・南条新六郎とともに群馬県山田郡安楽土村に桐生縮緬会社を設立した[8]。1886年(明治19年)7月同村に変則中学校として桐生私立英語学校を開校した[9]。1887年(明治20年)県産織物輸送のための両毛鉄道創立に参加し、1889年(明治22年)開通、1890年(明治23年)度まで副支配人を務めた[3]。
1889年(明治22年)3月上京し、深川区西平井町の洲崎製鋼創立に参加して取締役を務めた[3]。1891年(明治24年)には横浜市にあって伏島近蔵とともに新吉田川開削を計画し、1896年(明治29年)竣工した[10]。栃木県でも鉱山開発に関わって利益を上げたが、足尾鉱毒事件により鉱山事業に逆風が吹き、自身の会社も赤字に苦しむ中、1898年(明治31年)1月21日死去した[3]。
家族
脚注
参考文献
- 髙山慶子「栃木県官吏仲田信亮の旧江戸町名主馬込惟長宛書簡 ―大谷石などの栃木県産石材をめぐって―」『宇都宮大学教育学部研究紀要』第1巻第66号、宇都宮大学教育学部、2016年3月。
- 藤井明広「明治初年、岩鼻県における村落支配 ―治安取締をめぐる動向を中心として―」『立正大学文学部論叢』第138号、立正大学文学部、2015年3月。
- 『特別大演習記念 下都賀郡小志』栃木県下都賀郡役所、1918年。NDLJP:953205/15。
- 『栃木県自治制史』下野日日新聞民報社、1903年。NDLJP:784726/19。
- 『桐生織物史』 中巻、桐生織物同業組合、1938年。NDLJP:1719613/269。
- 『桐生市史』 明治編中巻、桐生市史刊行委員会、1959年。NDLJP:3024326/286。
- 『横浜市史稿』 地理編、名著出版、1973年。NDLJP:9536611/351。
- 『大衆人事録』 中部篇(13版)、帝国秘密探偵社・国勢協会、1940年。NDLJP:1173395/127。
- 『人事興信録』 下巻(16版)、人事興信所、1951年。NDLJP:2997929/147。
- 栃木県史附録 日光県史附録 官員履歴(明治元‐4年) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
- 栃木県史材料 制度部 官員履歴(明治5‐7年) - 国立公文書館デジタルアーカイブ
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