令狐通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 10:10 UTC 版)
令狐 通(れいこ つう、生没年不詳)は、唐代の軍人。本貫は京兆府富平県[1][2]。
経歴
令狐彰の子として生まれた[3][4]。元和年間、宰相の李吉甫の上奏により賛善大夫の位を受け、宿州刺史として出向した[5][6]。
元和9年(814年)、淮西の呉元済が反乱を起こすと、令狐通はこれを討つために起用されて泗州刺史となった。この年のうちに寿州団練使・検校御史中丞に転じた。戦闘があるたびに、令狐通は必ず得た捕虜の人数を誇張した。数人の反乱兵を捕らえると、すぐさま勝報を上書した。宰相の武元衡は笑って上奏しなかった。令狐通は敗北すると、あえて上聞しようとしなかった。のちに反乱軍の攻撃に遭い、州境の城柵がそろって陥落すると、令狐通は寿春県に逃れ、城壁を閉ざして出陣しなかった[7][6]。
憲宗は李文通を派遣して令狐通と交代させ、令狐通は昭州司戸参軍に左遷された。のちに撫州司馬に転じた。元和14年(819年)、長安に召還されて右衛将軍となった。給事中の崔植は令狐通がかつて寿州で紀律を失っており、将軍の任を加えるにふさわしくないと上奏した。しかし憲宗は令狐通の父に功績があることから、その子を棄てるに忍びないと、制命のとおり行わせた。1年あまりして、令狐通は淄州刺史として出向した。長慶初年、入朝して左衛大将軍となり、死去した[7][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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