令狐彰
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令狐 彰(れいこ しょう、生年不詳 - 773年)は、唐代の軍人。字は伯陽。本貫は京兆府富平県[1][2]。
経歴
鄧州録事参軍の令狐濞(令狐徳棻の曽孫)の子として生まれた。母の家に留められ、幽州で成長した。才気に優れて、胆気があった。書物を渉猟して、文意のあらましを知った。弓矢を得意として従軍し、安禄山に仕えた。天宝年間、軍功により左衛員外郎将に累進した[3][2]。
安禄山が反乱を起こすと、令狐彰は反乱軍の将の張通儒に従って長安に進攻した。張通儒により城内左街使とされた。至徳2載(757年)、唐軍が長安・洛陽を奪回すると、令狐彰は張通儒らに従って河朔に逃走した。史思明の下で博州刺史と滑州刺史をつとめ、数千の兵を率いて白馬県に駐屯した[4][2]。
上元2年(761年)[5]、令狐彰は唐への帰順を図り、唐の滑州監軍の楊万定に上奏文を届けた。令狐彰は杏園に移駐していたため、史思明に疑われ、史思明の派遣した薛岌の精兵に杏園を包囲された。令狐彰は旗幟を鮮明にして、反乱軍と戦い、これを撃破して包囲を脱出した。麾下の将士数百人とともに楊万定に従って長安に入朝した。粛宗の厚遇を受けて、御史中丞に任じられ、滑州刺史・滑亳魏博節度使を兼ねた。そのまま銀青光禄大夫の位を加えられ、滑州に駐屯し、反乱軍の残党の掃討を委ねられた。宝応2年(763年)、史朝義が滅亡すると、令狐彰は御史大夫に転じ、霍国公に封じられた[4][6]。
大暦3年(768年)、令狐彰は検校工部尚書を加えられた。ほどなく余官はもとのまま、検校尚書右僕射を加えられた[4]。晩年には母の喪にあって、令狐彰は失明した[7]。大暦8年(773年)2月壬申、死去した[8]。太傅の位を追贈された[7]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。
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