今の間のおういぬふぐり聖人去り
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評 言 |
わかりにくい句だと思う。「今の間」は、現在あまり使われない気がするが、さして問題なく意味は通じるだろう。さしあたりとか今こうしている瞬間というような意味がある語である。 今のまの朝がほをみよかかれどもただこの花はよの中ぞかし 「和泉式部続集」 いかにせむただ今の間の恋しさに死ぬばかりにも惑はるるかな 「とりかへばや物語」 今朝のまの色もはかなし槿の花におくるる秋の白露 「土御門院百首解題」 この他、句集のタイトルと関係はあるまいが、賀茂真淵の県門三才女と謳われた鵜殿余野子(よのこ)の長歌に「(前略)うつそみの うつくしき時の/うつくしき こころのかぎり/かよはせし 其ことのはも/今のまの おなじふ月の/真葛原 はしたなかりし 夕風に/さかりもまたで 散りにきと/ 聞きつる折は(以下略)」がある。 これらの歌から読めるとおり、この表現は世の無常や刹那の恋心のはかなさやはげしさを詠み込むのによく用いられた。とすれば、掲句のなかの瞬間に起こった出来事はなにか?おそらくはわざと「大」の仮名遣いを逸脱して「おういぬふぐり」にした掛詞「王」が読みのコードなのだろう。切れの向こうにある、去っていった「聖人」と王との間で何かが起こったのであり、それを知るのは間にいた「いぬのふぐり」だけ、というところか。作者攝津幸彦は自分の作風を「高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っている(「太陽」94年12月)」と語ったことがある。確かに、そのようである一句。 撮影:青木繁伸(群馬県前橋市) |
評 者 |
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備 考 |
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