二宮事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:35 UTC 版)
全琮は、孫和と孫覇による孫権の後継者争い(二宮事件)において、歩騭や呂岱らと同様に孫覇の立太子を支持したとされている。 武昌を守備する陸遜に手紙を送って首都の様子を報告した。後に全寄を孫覇の家臣とさせている事を知った陸遜は、全琮に対し「あなたは金日磾を師とせず全寄を擁護しているが、それは家に災いをもたらすことになる」と手紙を送った。全琮はこれを受け入れなかったため、陸遜と不仲になったという。 赤烏9年(246年)に右大司馬(全琮伝では右軍司馬・左軍師)に昇進した。 その後、死去した。なお全琮の没年は、赤烏10年(247年)春正月・赤烏12年(249年)春正月・赤烏12年(249年)冬とその記述が揺れている。
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