二俣の中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 10:10 UTC 版)
二俣という地名は戦国時代より見え、大隅国向島のうちであった。天文8年(1539年)に島津貴久によって樺山善久に対して二俣などが宛がわれた。のちに樺山氏の領地のうち二俣が藤野(現在の桜島藤野町)と交換された。その後天正11年(1583年)までは本田正親の領地となっていたとされる。天正11年(1583年)から天正13年(1585年)にかけて上井覚兼領であった白浜(現在の桜島白浜町)と二俣の間で境界を巡る論争が起こった。向島郷の地頭の裁定により境界が確定されたが、二俣の住民はこれを受け入れずに境界線の変更を申し立てたが紛糾したとされる。
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