乃木希典の殉死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 14:19 UTC 版)
1912年(大正元年)9月11日(9日など他説あり)、参内した乃木希典は皇太子となった裕仁に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に裕仁は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。 9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は妻の静子と共に自刃した。裕仁と2人の弟宮たちはその翌朝に養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、その辞世の歌に接して涙した。丸尾によると、裕仁はこの時、涙ながらに「乃木院長が死なれた」「ああ、残念である」とつぶやいた。丸尾は殉死という事には議論があり、さらにその理由については説明することができないので、「院長が切腹された理由は何れ御三方共(裕仁親王・雍仁親王・宜仁親王)成長の後は御判りに相成る事である」とだけ伝えた。
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