中野重美とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 中野重美の意味・解説 

中野重美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/28 08:37 UTC 版)

中野 重美(なかの しげみ、1909年明治42年)10月5日 - 1991年平成3年)8月9日[1])は、広島県広島市出身の実業家中国電力副社長、中国電気工事(中電工)社長、広島商工会議所会頭などを務めた。

経歴

1909年広島市に生まれる。旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校[2][3]旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部を卒業。「打倒広島一中」を掲げて修道中学に蹴球部が創部されたのは大正13年(1924年)で[4]、修道蹴球部(サッカー部)が生んだ最初の名選手で[3]、六高ー京都帝大でサッカー部黄金時代を築いた[3]。京都大学時代に第10回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出された[5](就職の都合上辞退)。1934年広島市役所に入庁。1936年広島電機(現:中国電力)に入社。同社営業部長、労務部長、理事、常務取締役を経て副社長に就任。1975年中国電気工事(現:中電工)に移り代表取締役社長に就任。1982年会長になる。その間、広島総合警備保障、広島ホームテレビの取締役、広島商工会議所会頭[6]、広島経済同友会顧問など多くの公職を歴任した[7]。また広島県体育協会副会長、広島県サッカー副会長などを務め[3]、当地のスポーツ振興に尽力した[3]

脚注

  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、893頁。
  2. ^ 修道学園中高同窓会会員名簿第35号2010年67頁
  3. ^ a b c d e 横手三千雄<連載第7回> 人物を中心とした体育・スポーツ郷土史 ー広島県ー (PDF) 文部省編『文部時報』 ぎょうせい pp.91–93 1977年3月号 文化庁
  4. ^ 林孝治100周年特別寄稿 秋山先生を偲んで(蹴球部の創設者) (PDF) 『修道』No.75 平成23(2011年9月3日発行) 修道中学校・高等学校同窓会 p.1664
  5. ^ 修道(中高)同窓会誌「修道」No77, 2012年1799頁
  6. ^ コラム 「池田丸」進発”. 広島経済レポート. 広島経済研究所 (2019年12月5日). 2025年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月28日閲覧。
  7. ^ 広島県風土記1986年初版481頁

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中野重美」の関連用語

中野重美のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中野重美のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中野重美 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS