中村吉兵衛 (下野中村氏)
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| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 天正2年(1574年) |
| 死没 | 慶長10年(1605年)9月20日[1] |
| 別名 | 中村兵左衛門[2]、中村吉兵衛 |
| 戒名 | 道本院法累全山大居士[1] |
| 墓所 | 祥雲寺 (栃木県宇都宮市東戸祭)[3] |
| 主君 | 宇都宮国綱 |
| 氏族 | 中村氏 (下野国) |
| 父母 | 父:中村国長、母:起総院(今泉泰光の娘)[1]) |
| 妻 | 流永院(君島高胤の娘) |
| 子 | 吉兵衛 |
中村 吉兵衛(なかむら きちべえ)は、戦国時代の武将。中村日向、中村兵左衛門[2]、中村吉兵衛。下野国の宇都宮氏家臣。中村氏 (下野国)第18代当主。中村領、最後の領主。
経歴
天正14年(1586年)、水谷正村が宇都宮国綱の支城であった上三川城に攻め込んできた。宇都宮国綱は芳賀高氏、長山通兄を大将として、吉兵衛の祖父、中村時長と父の国長、そして上三川城主の今泉泰光等を先鋒に砂田原において水谷正村と対陣した[4]。水谷正村率いる結城晴朝軍は敗退し、中村領の内、寺内、若旅、加倉、粕田、寺分、下大沼、上大沼、柳林、勝瓜、長田、伊勢崎、小橋、大和田、上下西金井、高間木、亀山を宇都宮領とする条件で和睦を申し出た[5]。
父の中村国長は中村氏が代々守ってきた旧領を宇都宮国綱より拝領[4]したが、国長が文禄4年(1595年)に病没すると、中村領は宇都宮国綱の命により、嫡男の兵左衛門[2]が跡を継ぎ中村日向守吉兵衛と名乗った[6]。
豊臣秀吉による宇都宮仕置きと宇都宮国綱の改易
宇都宮氏累代の重臣となっていた中村氏であったが、慶長2年10月13日(1597年11月22日)豊臣秀吉により宇都宮国綱が突如として改易されると宇都宮氏の家臣たちは国綱に帯同することが許されず、そのほとんどが村役人などになり宇都宮の地に残らざるを得なかった。
主家である宇都宮氏と旧臣たちとの交流は江戸時代も続いたが、宇都宮氏が宇都宮城主として再興することはなかった[7]。
中村吉兵衛
江戸時代の中村氏は慶長2年(1597年)の豊臣秀吉の命により宇都宮氏が改易となると、宇都宮氏の各支城も廃城となり、拝領地の戸祭城も廃城となったが、中村氏は現代に至るまで戸祭城本丸跡地にそのまま中村氏の遺構として確認されている。中村氏は宇都宮国綱の最後の重臣となった中村吉兵衛という名前を明治五年八月の改名禁止令[8]が布告されるまで、当主8代に渡って[† 1]踏襲している[9]。
脚注
史料
出典
- ^ a b c 野州中村神社縁起 P30
- ^ a b c 宇都宮旗下義士連名簿 栃木県立図書館所蔵 下野歴史56号P33
- ^ 野州中村神社縁起 P29
- ^ a b 野州中村神社縁起 P15
- ^ 栃木県立図書館所蔵・下野史談第1巻第6号P14-P15「中村郷土史」
- ^ 宇都宮弥三郎旧臣名簿(天保3年、栃木県立図書館複製史料所蔵)
- ^ 栃木県立公文書館所蔵・文書番号35「宇都宮氏旧臣関係文書」
- ^ 東京大学デジタルアーカイブ「明治五年八月の改名禁止令」
- ^ 野州中村神社縁起 P16
注釈
- ^ 第18代当主の中村吉兵衛から第25代当主の吉兵衛までの8代が吉兵衛と襲名した。中村氏は平安時代から戦国時代までの間にも何代かの当主が時長を通称とし、藤原山蔭の弟の藤原時長や藤原朝宗、中村城最後の城主の藤原時長などが時長を名乗っており、中村氏の名前の踏襲は幾代にも渡り確認されている。
関連項目
外部リンク
- 伊佐氏・伊達氏・下野中村氏 家系図 - 茨城県筑西市
- 中村吉兵衛 (下野中村氏)のページへのリンク