中村頼長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 12:36 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代 |
死没 | 正安元年(1299年)10月4日[1] |
改名 | 藤原朝長→藤原頼長 |
別名 | 中村太郎、中村左衛門尉、藤原頼長 |
戒名 | 立徳院殿原山諸抜大居士[1] |
墓所 | 栃木県真岡市寺内荘厳寺[1] |
官位 | 左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 藤原頼経→藤原頼嗣 |
氏族 | 中村氏 (下野国) |
父母 | 父:中村朝綱、母:有山院(足利義継の娘) |
兄弟 | 頼長、伊達宗綱室 |
妻 | 徳顕院(後藤基政の娘) |
子 | 資宗(八幡氏)、盛綱(粕田氏)、家綱(柳林氏)、朝政(加倉氏)、貞綱(長田氏)、義綱(芽堤氏)、義元 |
中村 頼長(なかむら よりなが、旧字体:中村 賴長)は、鎌倉時代の御家人。
藤原頼長。中村太郎、中村左衛門尉。官位は左衛門尉。中村氏 (下野国)第3代当主。
経歴
仁治4年(1243年)、1月に御弓射手始めの2番手[2]として名を見出すと、同年に中村朝綱は嫡子の頼長に家督を譲り、自らは中村八幡宮の改修を取り仕切るために下野国の中村荘に下向した。頼長は家督を継いで藤原頼経の御家人となり、頼経の偏諱を賜り、朝長から頼長と名乗った[3]。
藤原頼経が退任した後の、建長2年(1250年)に頼長は常陸国伊佐中村に住した[1]。
脚注
史料
- 吾妻鏡
- 雲但伊達家系図
- 永禄伊達系図
出典
注釈
関連項目
外部リンク
- 伊佐氏・伊達氏・下野中村氏 家系図 - 茨城県筑西市
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