中川吉之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/06 13:45 UTC 版)
中川 吉之助 | |
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個人情報 | |
生誕 | 1853年??月??日![]() |
死没 | 1888年3月29日(35歳没)![]() |
死因 | 絞首刑 |
殺人 | |
犠牲者数 | 4人 |
犯行期間 | ?–1887年 |
国 | ![]() |
都道府県 | 東京府 |
逮捕日 | 1887年 |
司法上処分 | |
刑罰 | 死刑 |
有罪判決 | 殺人罪 |
判決 | 死刑 |
中川 吉之助(なかがわ きちのすけ[2]、1853年 - 1888年3月29日[2])は、日本の明治時代の連続殺人犯、死刑囚[2]。
事件
乳を飲ませず飢え死にさせたり[3]、壁に叩きつけるなどといった方法で4人の貰い子を次々と殺害した[3]。殺害した嬰児の遺体は東京府芝区白金志田町(現:東京都港区白金)のエノキの木の下に埋め遺棄した。その後に白金志田町のエノキの下から嬰児の白骨死体3体が発見された[4]。吉之助は銀座の理髪店で逮捕され[3]、被害者を壁に叩きつけて殺害した事について「気持ちが悪うございました」と申し立てた[3]。1887年12月3日に死刑判決を言い渡され[3][2][5]、1888年3月29日に死刑を執行された(35歳没)[2][5]。
脚注
- ^ 『中川吉之助 : 探偵実話』 金松堂、1894年、415頁NDLJP:887547/221
- ^ a b c d e “中川吉之助(35歳)”. 日本の死刑 - 明治時代. 2025年5月5日閲覧。
- ^ a b c d e 篠田鉱造『明治百話』四條書房、1931年、515頁。NDLJP:1236333/297
- ^ 篠田鉱造『明治百話』四條書房、1931年、516頁。NDLJP:1236333/298
- ^ a b 官報 1888年07月23日国立国会図書館デジタルコレクション
書籍
関連項目
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