与茂七火事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/27 01:34 UTC 版)
与茂七が刑に処せられてまもなく、大庄屋や奉行所のこの件に関わった役人達は、次々と気がふれて狂い死に、続いて享保4年(1719年)、新発田城下の町の大半が焼けるという大火事に見舞われた。その大火のおり、町中を飛び回る青い火の玉があり、それが降りたところから火の手が上がるのを見たという人が大勢いた。人々は、「これは与茂七のたたりであるに違いない」と言い出し、この大火を与茂七火事と呼ぶようになった。それからというもの、新発田が大火事が起こると、すぐに与茂七火事が引き合いに出されるようになった。昭和10年(1935年)9月13日の新発田大火で、被災地域の中で一軒だけ焼け残った家があったが、その時なども、「与茂七が刑場に連れて行かれるときに、わらじをくれてやった家である」という話が、人々の間でまことしやかに語られるほどである。
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