下夕張鉄五郎
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下夕張 鉄五郎(しもゆうばり てつごろう、1836年〈天保7年6月10日〉 - 1906年〈明治39年〉7月[1])は、明治時代に活動したアイヌの男性。
現在の北海道夕張郡由仁町に居を構え、道案内や渡船などで開拓者たちを支援した[2]。
名前について
戸籍の作成にあたって日本語名をつける必要が生じたため、居住地の下夕張をもって姓とした[3]。文献によっては姓を夕張としている[4]。また個人名は、かつて近隣一帯の有力者であった松前鉄五郎にちなむ[3]。
上記の命名者は泉麟太郎であったと伝わるが、異説によれば1881年(明治14年)の明治天皇北海道巡幸の折、天皇から「下夕張鉄五郎」と名乗るよう言われたという[3]。
なお、北海道大学附属図書館に保管されている写真「開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2」の裏面には、「下湯原鉄五郎」と誤記されている[5]。これは名前の聞き取りの際、「夕張」をアイヌ語の発音 "yubar" で答え、それを日本語話者が「ゆばら」として記載した可能性が考えられる[5]。
生活
鉄五郎は、夕張川と阿野呂川の合流地点から少し上流の、由仁側に小さな草小屋を建てて住んでいた[2]。妻と、4人の子供たちとの6人暮らしである[2]。
服装は、自製の着古したアットゥシをまとい、オヒョウの皮で作られたわらじを履いていた[2]。
食事は、アワやヒエなどを少しずつ作り、粥にして食べた[2]。また、手製の丸木舟でサケやウグイを獲っていた[2]。クマやキツネを獲ったときは、毛皮を剥いで和人と交易し、肉は食用にしたという[2]。
経歴
鉄五郎は、乙名を補佐する役職である小使の子であったため、1872年(明治5年)に東京の開拓使第3官園へと連行され、強制就学させられた[6]。
1881年(明治14年)に北海道を巡幸した明治天皇が教育費を下賜した、アイヌ23人のうちに名を連ねている[3]。
1888年(明治21年)5月には、夕張原野への入植を試みる泉麟太郎一行の案内をしている[7]。泉は先発隊として5月8日に夕張川を越える予定であったが、折悪しく増水していたため、鉄五郎の進言で渡河を見合わせることとなった[8]。5月11日に後発隊が追いついてもまだ進むことができず、さらに5日間も野宿を重ねた末の5月16日、鉄五郎は晴天を見計らって移民たちをひとりずつ丸木舟に乗せ、夕張川を越えた[7]。また馬については、浅瀬を選んで渡らせた[9]。
1906年(明治39年)7月[1]、夕張川沿で生涯を終え、その地に土葬されたが、洪水のせいで墳墓の痕跡は残っていない[2]。彼の長男の下夕張シユンタローの一家は、やがて由仁を引き払い、長沼町舞鶴地区へ移住したと言われる[2]。
写真について

アイヌ語地名研究者の山田秀三は、1965年(昭和40年)刊行の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』の中で、「琴似又市の写真」を取り上げて紹介した[10]。居並ぶアイヌたちの中央に立つ、アットゥシ姿の人物である[11]。
これは『札幌区史』に掲載された「東京仮学校に留学中のアイヌ人」の写真から1名を抜き出したもので、おそらく写真に添えられた「前列左より(中略)四番目琴似又市」というキャプションを参照したものと考えられる[10]。
基となった写真「開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其2」の検証を試みた北海道博物館アイヌ民族文化研究センターの大坂拓は、『札幌区史』や山田秀三の著作にある記述を誤りとし、「前列左から4番目」の人物は琴似又市ではなく、実は下夕張鉄五郎であったと指摘した[12]。
脚注
参考文献
- 『長沼町の歴史』 上巻、長沼町、1962年9月15日。
- 『由仁町史』由仁町、1973年11月3日。
- 廣瀬健一郎「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」『北海道大学教育学部紀要』第72号、北海道大学教育学部、1996年12月、89 - 119頁、ISSN 04410637、 NAID 110000341071。
- 大坂拓「琴似又一郎の写真について -北海道大学附属図書館所蔵資料の再検討-」『札幌博物場研究会誌』2022年10月6日、1 - 7頁。
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