三烈士の最期と向野による遺骸の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:03 UTC 版)
「向野堅一」の記事における「三烈士の最期と向野による遺骸の発見」の解説
金州城近くで処刑された山崎、藤崎、鐘崎3名についてこう記されている。 「山崎、藤崎、鐘崎の処刑の状況は、11月6日金州を占領した日本軍が押収した書類から分明となった。碧流河河岸で捕えられた三名は厳しい拷問を受けたが答えず、10月31日夜斬首された。刑の執行にあたり西南に向い、清国皇帝を拝するよう命ぜられると山崎以下三士は断然これを拒み、東方聖天子を拝した。清国兵は怒って山崎の顔面を斬ったが山崎は血に塗れながら「吾輩死すとも魂映は必ず祖国に帰る。何ぞ汝輩の命に従はんや」と叫んで首を刎ねられたという。三名の最期と遺骸の埋められた地点はシナ人でありながら疑われて捕われていた同獄の王某の証言で28年2月、はじめて明らかになった。六名中奇蹟的に生還した向野堅一は遺骸発掘に立ち合ったが身首処を異にした無惨な遺骸は弁別しようもなかった。向野と藤崎は出発前一枚の布を分けて足に巻いていたが、その布片は遺骸の脚部にまだ巻きつけられていた。それを見た向野は耐えきれず号泣したという。」 向野は「藤崎とは多年来の親友にして、肝胆相許すの間柄」であったという。
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