三河別院挙母支院とは? わかりやすく解説

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三河別院挙母支院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 13:29 UTC 版)

三河別院挙母支院
所在地 愛知県豊田市神明町1丁目55
位置 北緯35度05分8.6秒 東経137度09分28.8秒 / 北緯35.085722度 東経137.158000度 / 35.085722; 137.158000
宗旨 浄土真宗
宗派 大谷派
本尊 阿弥陀如来
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三河別院挙母支院(みかわべついんころもしいん)は、愛知県豊田市神明町1丁目55にある真宗大谷派寺院本尊阿弥陀如来[1]岡崎市にある真宗大谷派三河別院の支院である[2]。旧称は挙母説教所。毎年5月には挙母寄席という落語会が催される[2]

歴史

近世

もとは浄土宗説教所だったが、真宗大谷派が譲り受けて挙母説教所となった。挙母説教所は現在地より約450メートル北東(現・豊田市喜多町4丁目)にあったが、元治元年(1864年)に火災で焼失した[3]

近代

明治初頭には安長寺を手継とする説教所の建設が計画されたが、西南戦争の混乱などもあって進まなかった[3]。1878年(明治11年)には本堂の再建に取り掛かると、1882年(明治15年)に本堂が再建され[3]、安長寺説教所となった[1]。やがて西加茂郡力石村(現・豊田市力石町)の如意寺の末寺となったが、1884年(明治17年)には本山の直轄説教所となった[3]

1894年(明治27年)11月には西加茂郡矢並村(現・豊田市矢並町)の民家を移築して庫裡とした[3]。1922年(大正11年)には昇格して大谷派挙母支院となった[3]。1942年(昭和17年)には宗教団体法の認可を得た[1]

現代

1951年(昭和26年)には宗教法人として認可され、岡崎市の真宗大谷派三河別院を冠した三河別院挙母支院に改称した[3]

境内

  • 本堂 - 入母屋造、桟瓦葺。1882年(明治15年)再建[3]
  • 庫裏 - 幕末頃に西加茂郡矢並村(現・豊田市矢並町)に建てられた民家であり、1894年(明治27年)11月に移築された[3]
  • 書院 - 戦後に建立[3]
  • 鐘楼 - 入母屋造、桟瓦葺。大正末期建立[3]
  • 山門(正門) - 薬医門。境内南側にある。大正末期頃竣工[3]
  • 山門(裏門) - 薬医門。境内北側にある。大正末期頃竣工[3]
  • 水屋 - 水盤は1912年(大正元年)完成[3]
  • 便所

現地情報

所在地
交通アクセス

脚注

  1. ^ a b c 『豊田市史文化資料 社寺編 第1』豊田市教育委員会、1970年、p.36
  2. ^ a b 今月のお寺 岡崎教区第25組三河別院挙母支院」『真宗』東本願寺出版、2009年9月
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『豊田市の寺社建築 2 真宗寺院』豊田市教育委員会、1986年、29-31頁。 

参考文献

  • 『豊田市の寺社建築 2 真宗寺院』豊田市教育委員会、1986年。 



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