真宗大谷派三河別院とは? わかりやすく解説

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真宗大谷派三河別院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 02:36 UTC 版)

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真宗大谷派三河別院
所在地 愛知県岡崎市中町字野添25
位置 北緯34度57分30.0秒 東経137度10分34.0秒 / 北緯34.958333度 東経137.176111度 / 34.958333; 137.176111座標: 北緯34度57分30.0秒 東経137度10分34.0秒 / 北緯34.958333度 東経137.176111度 / 34.958333; 137.176111
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 別院
創建年 1890年(明治22年)
開基 厳如
別称 三河別院
東本願寺三河別院
公式HP 真宗大谷派三河別院
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真宗大谷派三河別院(しんしゅうおおたにはみかわべついん)は愛知県岡崎市にある真宗大谷派寺院(別院)。

歴史

先立つこと天明8年(1788年)に碧海郡暮戸(現・岡崎市暮戸町)に会所が置かれて、赤羽御坊とともに西三河地方の布教を担っていたが、明治維新を経て東本願寺21世・厳如は岡崎に「別院」を建立することを計画した[1]。1890年(明治22年)10月、岡崎の三河教校に「三河別院」が仮設置され、赤羽別院と暮戸説教場を移転統合するという通達が出されたが[1][2]、それぞれの地元の門徒に依る存続請願の結果これらは残された[3]

現在の場所に仮堂が建てられ、翌年4月8日に丹後峯山別院の本尊を移しての入仏法要が執り行われた[2][3]。1896年(明治29年)に仮堂が破損したことから、1903年(明治36年)に本山の旧太子堂を移築することが22世・現如によって決められ[1]、本堂として1906年から建方が進められたものの翌年8月の暴風雨によって倒壊[1]。工事が完了し本堂が落成したのは1909年(明治42年)12月であった[1]

その後、境内には庫裏や書院、鐘楼などが建てられ[1]、隣接して燕岡幼稚園(現・燕ヶ丘保育園)が置かれた[3]太平洋戦争の際に本堂を含めた伽藍を焼失し[3]、現在の本堂は一旦の再建を経て1988年(昭和63年)に完成したもの[3]。東本願寺の岡崎教務所と隣接しており、この地域の布教の拠点となっている。

支院

愛知県豊田市に挙母支院がある。元々浄土宗の寺であったが大谷派に譲渡されて説教所となり、三河別院に寄進されて支院となっている[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f 真宗大辞典 第三巻(1952)、2016頁
  2. ^ a b 大日本寺院総覧(1966)、1407頁
  3. ^ a b c d e 三河別院の紹介”. 真宗大谷派三河別院 (2013年3月25日). 2021年8月22日閲覧。
  4. ^ 都会のオアシス”. 真宗教化センター しんらん交流館 (2016年4月27日). 2021年8月22日閲覧。

参考文献

  • 「真宗大辞典」第三巻、永田文昌堂、1936年2月20日初版・1952年11月1日改訂
  • 「大日本寺院総覧」、名著刊行会、1966年12月10日





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