平岡威一郎
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平岡 威一郎(ひらおか いいちろう、1962年(昭和37年)5月2日 - )は、日本の元実業家[1]。父は三島由紀夫。母は平岡瑤子。母の死後に代わって三島の著作権保護に努め、三島の映画論をまとめた『三島由紀夫映画論集成』の監修などに携わった[2]。
注釈
- ^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)[5][6][7]、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが[8][9][10]、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名(三島由紀夫の本名)が記載されている[11]。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる[12]。
- ^ その後に閉店となり、現在はない。
出典
- ^ a b 「昭和63年9月9日」(日録 1996, p. 452)
- ^ a b c 「奥付」(映画論 1999)
- ^ 「年譜 昭和37年5月2日」(42巻 2005, p. 253)
- ^ 「昭和37年5月2日」(日録 1996, p. 272)
- ^ 阿川弘之からGeorge H. Lynchまでの書簡・葉書(38巻 2004, pp. 33–948)
- ^ 浅野晃から平岡紀子までの書簡・葉書(補巻 2005, pp. 198–235)
- ^ 犬塚潔「三島由紀夫の名刺」(研究6 2008, pp. 166–171)
- ^ 「第五章 『鏡子の家』の時代」内(年表 1990, p. 131)
- ^ 「第三章 薔薇の痙攣」内(生涯 1998, p. 198)
- ^ 「年譜」(昭和34年5月10日)(42巻 2005, p. 231)
- ^ 住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行)(国立国会図書館 Online)p.300
- ^ 川端書簡 2000, pp. 152–171
- ^ a b 「わが育児論」(34巻 2003, pp. 84–87)
- ^ 「昭和40年、自邸にて、家族とともに」(写真集 2000)
- ^ 「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)
- ^ 原 2007, p. 262
- ^ a b 『週刊朝日』1995年8月18日・25日合併号「瑤子夫人沈黙の25年」
- ^ 『諸君!』1999年12月号143頁
- ^ 売野雅勇『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』朝日新聞出版、2016年、p.203
- ^ 「年譜 平成10年」(42巻 2005, pp. 365–366)
- ^ 「年譜 平成12年5月23日」(42巻 2005, p. 368)
- ^ “三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文”. 2016年3月31日閲覧。
- ^ a b 「函裏」(春の雪DVD 2006)
- ^ a b 「小説家の息子」(教育月報 1963年7月号)。遍歴 1995, pp. 225–231、32巻 2003, pp. 485–490
- ^ 「劇画における若者論」(サンデー毎日 1970年2月1日号)。36巻 2003, pp. 53–56
- ^ a b 「怪獣の私生活」(NOW 1968年11月号)。35巻 2003, pp. 288–291
- ^ a b c d e 「第一章」(梓 1996, pp. 7–30)
- ^ a b 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
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- 2 平岡威一郎の概要
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