一雲斎針阿弥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 23:35 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
死没 | 1582年6月21日(天正10年6月2日) |
主君 | 織田信長 |
一雲斎 針阿弥(いちうんさい しんあみ、生年不詳 - 1582年6月21日(天正10年6月2日))は、戦国時代の人物。織田信長の同朋衆。
経歴
織田信長の元で副状の発給や(楠木長諳への書状に記録あり)、使者として派遣されたり奉行衆と似た役割を努めていた。天正6年(1578年)に信長は針阿弥を使者として近衛前久に鶴を送った記録がある。天正7年(1579年)頃は主として法隆寺を担当。その他いくつかの寺社との接触が見られる。天正10年(1582年)に発生した本能寺の変で討死した[1]。
記録
- 天正7年(1579年)- 法隆寺東寺諸進へ上洛見舞を謝す。詳細を針阿弥に伝達させる[2]。
- 同年9月20日 - 針阿弥の仲介で岡屋若狭守を仕官させる[3]。
- 同年12月18日 - 信長が一雲斎を紀伊国高野山へ派遣[4]。
脚注
参考文献
- 信長公記
- 一雲斎針阿弥のページへのリンク