ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北とは? わかりやすく解説

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ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)

キプチャク」の記事における「ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北」の解説

ロスチスラフ1世キエフでの地位固めぬまま、ダヴィドの子イジャスラフに自分大公位を認めさせるべく、チェルニゴフに兵を進めたダヴィドの子イジャスラフはユーリーの子グレープに人を遣わし、ポロヴェッツ人を率いて援軍に来るよう頼んだロスチスラフ1世,フセヴォロドの子スヴャトスラフイジャスラフ2世の子ムスチスラフらはボロヴェス河畔留まり、人を遣わしてダヴィドの子イジャスラフに臣従強要した。イジャスラフはこれを断りユーリーの子グレープとポロヴェッツ人らと共に出陣し、ボロヴェス河畔ロスチスラフ1世の軍と戦闘開始したロスチスラフ1世の兵は僅かであったため、ポロヴェッツの兵が多数であるのを見たロスチスラフ1世慌てて和を乞い自分キエフ大公位と甥のムスチスラフペレヤスラヴリ公位をイジャスラフに与えと言い始めた。これを聞いたムスチスラフロスチスラフ1世から離反し自分所領へと帰って行ったその間、ポロヴェッツ人がロスチスラフ1世の軍を攻囲し2日間の戦闘の末、ロスチスラフ1世の軍は散り散りとなり、ある者は捕虜となり、ある者は殺され、ある者は逃げ去った。この戦いでロスチスラフ1世スモレンスク逃げ去り、フセヴォロドの子スヴャトスラフはポロヴェッツ人に捕まって捕虜にされた。その後ダヴィドの子イジャスラフはフセヴォロドの子スヴャトスラフ始め捕虜となったルーシ人々をポロヴェッツ人から救い出した。まもなくしてダヴィドの子イジャスラフはキエフ入ってキエフ大公イジャスラフ3世)となり、ユーリーの子グレープペレヤスラヴリ公とした。 1155年イジャスラフ3世キエフ大公となったことを聞いたユーリーロスチスラフ1世と和を結び、オレーグの子スヴャトスラフ,フセヴォロドの子スヴャトスラフらを従えてキエフ目指し進んだユーリーはモロヴィースクに至ると、人を遣わしてイジャスラフ3世大公位を譲るよう要請しイジャスラフ3世キエフから退去させた。こうしてユーリーキエフ大公ユーリー1世ドルゴルーキー)となり、多数ルーシから迎えられた。ユーリーは諸領地諸子分け与えアンドレイをヴイシゴロド公にボリストゥーロフ公に、グレープペレヤスラヴリ公とし、ヴァシリコにロシ川沿岸の地を与えた

※この「ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北」の解説は、「キプチャク」の解説の一部です。
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