ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北
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「キプチャク」の記事における「ロスチスラフ1世のチェルニゴフでの敗北」の解説
ロスチスラフ1世はキエフでの地位を固めぬまま、ダヴィドの子イジャスラフに自分の大公位を認めさせるべく、チェルニゴフに兵を進めた。ダヴィドの子イジャスラフはユーリーの子グレープに人を遣わし、ポロヴェッツ人を率いて援軍に来るよう頼んだ。ロスチスラフ1世,フセヴォロドの子スヴャトスラフ,イジャスラフ2世の子ムスチスラフらはボロヴェス河畔に留まり、人を遣わしてダヴィドの子イジャスラフに臣従を強要した。イジャスラフはこれを断り、ユーリーの子グレープとポロヴェッツ人らと共に出陣し、ボロヴェス河畔でロスチスラフ1世の軍と戦闘を開始した。ロスチスラフ1世の兵は僅かであったため、ポロヴェッツの兵が多数であるのを見たロスチスラフ1世は慌てて和を乞い、自分のキエフ大公位と甥のムスチスラフのペレヤスラヴリ公位をイジャスラフに与えると言い始めた。これを聞いたムスチスラフはロスチスラフ1世から離反し、自分の所領へと帰って行った。その間、ポロヴェッツ人がロスチスラフ1世の軍を攻囲し、2日間の戦闘の末、ロスチスラフ1世の軍は散り散りとなり、ある者は捕虜となり、ある者は殺され、ある者は逃げ去った。この戦いでロスチスラフ1世はスモレンスクに逃げ去り、フセヴォロドの子スヴャトスラフはポロヴェッツ人に捕まって捕虜にされた。その後、ダヴィドの子イジャスラフはフセヴォロドの子スヴャトスラフを始め、捕虜となったルーシの人々をポロヴェッツ人から救い出した。まもなくしてダヴィドの子イジャスラフはキエフに入ってキエフ大公(イジャスラフ3世)となり、ユーリーの子グレープをペレヤスラヴリ公とした。 1155年、イジャスラフ3世がキエフ大公となったことを聞いたユーリーはロスチスラフ1世と和を結び、オレーグの子スヴャトスラフ,フセヴォロドの子スヴャトスラフらを従えて、キエフを目指して進んだ。ユーリーはモロヴィースクに至ると、人を遣わしてイジャスラフ3世に大公位を譲るよう要請し、イジャスラフ3世をキエフから退去させた。こうしてユーリーはキエフ大公(ユーリー1世ドルゴルーキー)となり、多数のルーシから迎えられた。ユーリーは諸領地を諸子に分け与え、アンドレイをヴイシゴロド公に、ボリスをトゥーロフ公に、グレープをペレヤスラヴリ公とし、ヴァシリコにロシ川沿岸の地を与えた。
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