ルイーザ・ベレスフォード (ウォーターフォード侯爵夫人)
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ウォーターフォード侯爵夫人ルイーザ・アン・ベレスフォード(Louisa Anne Beresford, Marchioness of Waterford、出生名ルイーザ・アン・ステュアート(Louisa Anne Stuart)、1818年4月14日 – 1891年5月12日)は、イギリスの水彩画家。1850年代にジョン・ラスキンと知り合ったことでラファエル前派の知るところになり、そこで高評価を受けて1870年代より作品がグローヴナー・ギャラリーなどプロの美術ギャラリーに現れるようになった[1]。ウォーターフォード県キュラーモアの領地では慈善家として知られ、ジャガイモ飢饉の際にも救援に尽力した[1]。
生涯
若年期

初代ステュアート・ド・ロスシー男爵チャールズ・ステュアートと妻エリザベス・マーガレット(第3代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークの娘)の次女として、1818年4月14日にパリのフォーブール・サン=トノレ通りにあるイギリス大使館で生まれた[2][1]。父が長期間在フランスイギリス大使を務めたため、一家は1824年から1828年までハイクリフ(典礼カウンティではドーセット、歴史的カウンティではハンプシャーに属する)の地所に住んだ以外、長期間パリで過ごした[1]。ルイーザは幼い頃からフランスの絵をもとにチョークで肖像を模写し、10歳のときにはジョシュア・レノルズによる肖像画を模写した[1]。また家庭教師による教育では風景画のレッスンを受けた[1]。
1830年に帰国した後、1835年に宮廷デビューし、そこで美貌を称えられた[1]。1836年から1837年にかけてローマとナポリを旅し、そこのギャラリーで熱心に模写をした[1]。
結婚生活

1839年、第13代エグリントン伯爵が開催したエグリントン・トーナメント(中世のジョストのリエナクト)で騎士の1人として参加した第3代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ベレスフォードと出会った[1]。2人は1842年6月8日にホワイトホールの教会で結婚したが、子供はもうけなかった[2]。ウォーターフォード侯爵は競馬と狩猟が趣味で、軽罪で度々逮捕され、ルイーザの姉シャーロットが「乱暴な行儀」と酷評した人物であり、教養があって、敬虔で内気なルイーザと釣り合わないと評されたが[1]、ウォーターフォード侯爵は結婚を境に放蕩した生活を改め、度々逮捕されるようなことはなくなった[3]。彼はルイーザを愛し、ルイーザが画家になることも支持した[1]。
1859年3月29日、狩猟中の落馬事故により夫が死去した[2]。夫の遺言状に基づきノーサンバーランド州のフォード城を相続し[2]、そこに引っ越した[1]。1862年に建築家デイヴィッド・ブライスを招聘してフォード城を改築した[4]。1867年に母が死去するとハイクリフの地所も相続し、以降フォード城とハイクリフの両方で日々を過ごした[1]。
画家として
1850年代よりジョン・ラスキンと知り合い、ラスキンはルイーザの助言者になった[1]。ラスキンはルイーザを「彼女が貧しかったらパオロ・ヴェロネーゼになったかもしれない」など彼女の才能を認める一方、絵の仕上げと細部の描き込みには低評価を下した[1]。
1858年から1860年にかけて北イタリアを旅し、スケッチを描いたり、ルネサンス美術を学んだりし、『オックスフォード英国人名事典』はルイーザの絵画が水彩絵でより小規模であるものの、ルネサンス美術の影響がみられると評した[1]。彼女の絵画は宗教絵が多かったが、彼女自身の評価によれば、子供の絵など宗教色の薄い絵でも「神聖的」な雰囲気を出しているという[1]。
ラスキンによりルイーザの作品がラファエル前派の知るところになり、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティがルイーザの構図を称え、ジョージ・フレデリック・ワッツはルイーザを「イングランド出身のどの芸術家よりも優れた、生まれつきの芸術家」と評したが、ルイーザは自身をただのアマチュア画家と見ていたという[1]。しかし1870年代にはルイーザの作品がグローヴナー・ギャラリーなどプロの美術ギャラリーに現れるようになり、1880年代にはロイヤル・マンチェスター・インスティテューション(RMI)、ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミー(RHA)、女性芸術家協会に作品を出品するようになった[1]。女性芸術家協会では1865年から1876年まで後援者(パトロン)を務め、1887年から1891年まで名誉会員だった[1]。
慈善家として
ウォーターフォード県キュラーモアにチャペルを2つ出資して建てたほか、布を生産する工場を開業した[1]。ジャガイモ飢饉では援助に尽力し、1848年に住民反乱が生じそうになったときも夫の許す限りキュラーモアに滞在した[1]。1855年にも慈善目的のアマチュア芸術展に作品を出品した[1]。
死去
1891年5月12日にフォード城で死去[2]、19日にフォードの教会墓地に埋葬された[1]。死後、1891年、1892年、1910年、1983年に回顧展が開催された[1]。
ギャラリー
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クリスマスの日に歌う聖歌隊、1887年12月25日
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Dogs and Boy(犬と子供)
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A River in Spate(氾濫する川)
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Yeldham, Charlotte (23 September 2004). “Beresford [née Stuart], Louisa Anne, marchioness of Waterford”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/45749. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b c d e Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1959). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Tracton to Zouche) (英語). Vol. 12.2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 422–423.
- ^ Reynolds, K. D. (23 September 2004). “Beresford, Henry de la Poer, third marquess of Waterford”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ Historic England (21 September 1951). “Ford Castle (Grade I) (1371004)”. National Heritage List for England (英語). 2025年8月31日閲覧.
関連文献
- Ruskin, John (1972). Surtees, Virginia (ed.). Sublime & Instructive: Letters from John Ruskin to Louisa, Marchioness of Waterford, Anna Blunden and Ellen Heaton (英語). London: Joseph.
- Hare, Augustus (1893). The story of two noble lives: being memorials of Charlotte, Countess Canning, and Louisa, Marchioness of Waterford (英語). London: George Allen.
外部リンク
- ルイーザ・ベレスフォード (ウォーターフォード侯爵夫人)のページへのリンク