ルイーザ・ベレスフォード (ウォーターフォード侯爵夫人)とは? わかりやすく解説

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ルイーザ・ベレスフォード (ウォーターフォード侯爵夫人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 08:49 UTC 版)

サー・フランシス・グラント英語版による肖像画、1859年/1860年。

ウォーターフォード侯爵夫人ルイーザ・アン・ベレスフォードLouisa Anne Beresford, Marchioness of Waterford、出生名ルイーザ・アン・ステュアートLouisa Anne Stuart)、1818年4月14日1891年5月12日)は、イギリス水彩画家。1850年代にジョン・ラスキンと知り合ったことでラファエル前派の知るところになり、そこで高評価を受けて1870年代より作品がグローヴナー・ギャラリー英語版などプロの美術ギャラリーに現れるようになった[1]ウォーターフォード県キュラーモア英語版の領地では慈善家として知られ、ジャガイモ飢饉の際にも救援に尽力した[1]

生涯

若年期

シャーロット英語版(左)とルイーザ。ジョージ・ヘイター画、1830年。

初代ステュアート・ド・ロスシー男爵チャールズ・ステュアート英語版と妻エリザベス・マーガレット(第3代ハードウィック伯爵フィリップ・ヨークの娘)の次女として、1818年4月14日にパリフォーブール・サン=トノレ通り英語版にあるイギリス大使館で生まれた[2][1]。父が長期間在フランスイギリス大使を務めたため、一家は1824年から1828年までハイクリフ英語版典礼カウンティではドーセット、歴史的カウンティではハンプシャーに属する)の地所に住んだ以外、長期間パリで過ごした[1]。ルイーザは幼い頃からフランスの絵をもとにチョークで肖像を模写し、10歳のときにはジョシュア・レノルズによる肖像画を模写した[1]。また家庭教師による教育では風景画のレッスンを受けた[1]

1830年に帰国した後、1835年に宮廷デビューし、そこで美貌を称えられた[1]。1836年から1837年にかけてローマナポリを旅し、そこのギャラリーで熱心に模写をした[1]

結婚生活

エグリントン・トーナメント英語版で騎士の服を着た第3代ウォーターフォード侯爵ロバート・ソーバーン英語版画、1840年。

1839年、第13代エグリントン伯爵英語版が開催したエグリントン・トーナメント英語版(中世のジョストリエナクト)で騎士の1人として参加した第3代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ベレスフォードと出会った[1]。2人は1842年6月8日にホワイトホールの教会で結婚したが、子供はもうけなかった[2]。ウォーターフォード侯爵は競馬と狩猟が趣味で、軽罪で度々逮捕され、ルイーザの姉シャーロット英語版が「乱暴な行儀」と酷評した人物であり、教養があって、敬虔で内気なルイーザと釣り合わないと評されたが[1]、ウォーターフォード侯爵は結婚を境に放蕩した生活を改め、度々逮捕されるようなことはなくなった[3]。彼はルイーザを愛し、ルイーザが画家になることも支持した[1]

1859年3月29日、狩猟中の落馬事故により夫が死去した[2]。夫の遺言状に基づきノーサンバーランド州のフォード城英語版を相続し[2]、そこに引っ越した[1]。1862年に建築家デイヴィッド・ブライス英語版を招聘してフォード城を改築した[4]。1867年に母が死去するとハイクリフの地所も相続し、以降フォード城とハイクリフの両方で日々を過ごした[1]

画家として

1850年代よりジョン・ラスキンと知り合い、ラスキンはルイーザの助言者になった[1]。ラスキンはルイーザを「彼女が貧しかったらパオロ・ヴェロネーゼになったかもしれない」など彼女の才能を認める一方、絵の仕上げと細部の描き込みには低評価を下した[1]

1858年から1860年にかけて北イタリアを旅し、スケッチを描いたり、ルネサンス美術を学んだりし、『オックスフォード英国人名事典』はルイーザの絵画が水彩絵でより小規模であるものの、ルネサンス美術の影響がみられると評した[1]。彼女の絵画は宗教絵が多かったが、彼女自身の評価によれば、子供の絵など宗教色の薄い絵でも「神聖的」な雰囲気を出しているという[1]

ラスキンによりルイーザの作品がラファエル前派の知るところになり、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティがルイーザの構図を称え、ジョージ・フレデリック・ワッツはルイーザを「イングランド出身のどの芸術家よりも優れた、生まれつきの芸術家」と評したが、ルイーザは自身をただのアマチュア画家と見ていたという[1]。しかし1870年代にはルイーザの作品がグローヴナー・ギャラリー英語版などプロの美術ギャラリーに現れるようになり、1880年代にはロイヤル・マンチェスター・インスティテューション英語版(RMI)、ロイヤル・ハイバーニアン・アカデミー英語版(RHA)、女性芸術家協会英語版に作品を出品するようになった[1]。女性芸術家協会では1865年から1876年まで後援者(パトロン)を務め、1887年から1891年まで名誉会員だった[1]

慈善家として

ウォーターフォード県キュラーモア英語版チャペルを2つ出資して建てたほか、布を生産する工場を開業した[1]ジャガイモ飢饉では援助に尽力し、1848年に住民反乱が生じそうになったときも夫の許す限りキュラーモアに滞在した[1]。1855年にも慈善目的のアマチュア芸術展に作品を出品した[1]

死去

1891年5月12日にフォード城で死去[2]、19日にフォード英語版の教会墓地に埋葬された[1]。死後、1891年、1892年、1910年、1983年に回顧展が開催された[1]

ギャラリー

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Yeldham, Charlotte (23 September 2004). “Beresford [née Stuart], Louisa Anne, marchioness of Waterford”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/45749. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1959). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Tracton to Zouche) (英語). Vol. 12.2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 422–423.
  3. ^ Reynolds, K. D. (23 September 2004). “Beresford, Henry de la Poer, third marquess of Waterford”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ Historic England (21 September 1951). “Ford Castle (Grade I) (1371004)”. National Heritage List for England (英語). 2025年8月31日閲覧.

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