イーヴリン・ド・モーガンとは? わかりやすく解説

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イーヴリン・ド・モーガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 05:25 UTC 版)

イーヴリン・ド・モーガン
Evelyn De Morgan
生誕Evelyn Pickering
(1855-08-30) 1855年8月30日
死没1919年5月2日(1919-05-02)(63歳)
ロンドン
国籍 イギリス
運動・動向ラファエル前派

イーヴリン・ド・モーガンEvelyn De Morgan, 1855年8月30日1919年5月2日)は、イギリスラファエル前派画家

経歴

旧姓はイーヴリン・ピカリングEvelyn Pickering)。両親ともに上位中流階級の出で、父パーシヴァル・ピカリングQC(勅選弁護士)はポンテフラクトの刑事法院臨時裁判官。母アンナ・マリア・ウィルヘルミナ・スペンサー・スタンホープは美術家ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープ英語版の姉妹で、ノーフォークのレスター伯トーマス・コークの子孫にあたる。

15歳の時、ホームスクーリングでスケッチのレッスンを受けはじめた。17歳の誕生日の朝、イーヴリンは日記にこう記している。「芸術は永遠、でも人生は短い……」。「今それを埋め合わせしよう。私には無駄な時間はない」。イーヴリンは美術学校に行かせてもらえるよう、両親を説得しだした。両親は最初それを拒んだが、1873年、ようやく許しを得て、イーヴリンはスレイド美術学校に入学することができた。叔父ジョン・ロダム・スペンサー・スタンホープも画家で、イーヴリンに多大な影響を与えた。イーヴリンは叔父の住んでいたフィレンツェをたびたび訪れたが、そこでルネサンスの巨匠たちを研究することもできた。ことにイーヴリンが愛したのはサンドロ・ボッティチェッリだった。その影響でイーヴリンはスレイド美術学校が好む古典的なテーマから離れ、彼女独自のスタイルを作ることになった。

1887年に、イーヴリンは陶芸家ウィリアム・ド・モーガン(William De Morgan)と結婚し、ロンドンで暮らした。1917年に夫が先立ち、その2年後の1919年5月2日、イーヴリンはロンドンで亡くなった。遺体はサリー州ウォキング近郊のブロックウッド墓地に葬られた。[1]

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脚注

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  1. ^ Smith, Elise (2002). Evelyn Pickering De Morgan and the Allegorical Body. Madison, NJ: Fairleigh Dickinson University Press. ISBN 9780838638835 

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