リヒトーホーフェン・サーカスのエース
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「エルンスト・ウーデット」の記事における「リヒトーホーフェン・サーカスのエース」の解説
ル・カトー基地に置いてドイツ軍最強のエースパイロットだったマンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵と出会い、彼に才能を見いだされて彼が指揮する第1戦闘機大隊(「リヒトーホーフェン・サーカス」の異名で知られる)に招かれた。1918年3月24日から「リヒトーホーフェン・サーカス」に属する第11戦闘機中隊 (Jagdstaffel 11) の中隊長となった。 同年4月にリヒトーホーフェンは戦死し、さらに7月にはその後任のヴィルヘルム・ラインハルト (Wilhelm Reinhard) も事故死した。その後任の「リヒトーホーフェン・サーカス」隊長にはウーデットが任命されるという下馬評があったが、結局ヘルマン・ゲーリング中尉が新隊長に任命された。ウーデットは初めゲーリングが好きではなかったが、やがて親しい友人になった。 ウーデットは大戦を通じて62機を撃墜した。この記録は一次大戦を通じてリヒトーホーフェンに次ぐドイツNo.2の記録であり、大戦を生き抜いたパイロットの中ではNo.1であった。プール・ル・メリット勲章やホーエンツォレルン王家勲章等多くの勲章を受けた。彼の乗機には大きく「Du doch nicht!」(撃たないで!)と書かれていた。
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