ラパッロ条約 (1920年)とは? わかりやすく解説

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ラパッロ条約 (1920年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/01 04:10 UTC 版)

ラパッロ条約(1920年)
国境の変遷(1913年 - 1954年)。黄緑色、青緑色、黄色で示された範囲がラパッロ条約でイタリア領と認められた地域である
イタリア領ザーラの地図
署名 1920年11月12日
署名場所 ラパッロ
締約国 イタリア王国
セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラヴィア
主な内容 アドリア海沿岸の国境調整
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ラパッロ条約(ラパッロじょうやく、イタリア語: Trattato di Rapallo)、またはラパロ条約(ラパロじょうやく)[1]は、1920年11月12日[2]イタリア王国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラヴィア王国、以下ユーゴスラヴィア)との間でイタリア・ジェノヴァ近郊のラパッロで締結された条約である。

イタリアのジョヴァンニ・ジョリッティ首相とユーゴスラヴィアのミレンコ・ヴェスニッチ首相によって調印。

概要

条約によれば、イタリアはイストリアをはじめザーラ/ザダル(Zara/Zadar)とケルソ島(Cherso、現在のツレス島)、ルッシーノ島(Lussino、現在のロシニ島)、ラゴスタ島(Lagosta、現在のラストヴォ島)、ペラゴーザ島(Pelagosa、現在のパラグルジャ島)などの島々を保有し、フィウーメ(現在のリエカ)はフィウーメ自由国になるはずだったが[3]1924年1月27日に両国がローマ条約で確認した際にはフィウーメはイタリア領とされ[1]ダルマティアの他の地域[4]やスシャク(Sušak)がユーゴスラヴィア領とされた。

Paul N. Hehnによると、ラパッロ条約により、「イタリア国内に50万人のスラヴ人が残されたが、新生ユーゴスラビア国内には数百人のイタリア人しかいなかった」という[2]

脚注

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