ラウレアーノ・ルイスとは? わかりやすく解説

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ラウレアーノ・ルイス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/15 08:37 UTC 版)

ラウレアーノ・ルイス
名前
本名 ラウレアーノ・ルイス・ケベド
Laureano Ruiz Quevedo
ラテン文字 Laureano Ruiz
基本情報
国籍 スペイン
生年月日 (1937-10-21) 1937年10月21日(85歳)
出身地 ビジャフフレ英語版
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1956-1962 ラシン・サンタンデール 22 (1)
1959-1960 レアル・ハエン (loan) 0 (0)
1962-1966 ジムナスティカ
監督歴
1967-1968 ラシン・サンタンデール
1969-1971 ジムナスティカ
1971-1972 ラングレオ
1976 バルセロナ
1976-1978 バルセロナB
1978-1979 セルタ
1979-1980 ラシン・サンタンデール
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラウレアーノ・ルイス・ケベドLaureano Ruiz Quevedo1937年10月21日 - )は、スペインカンタブリア州ビジャフフレ英語版出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。現役時代のポジションはDF

経歴

選手時代はラシン・サンタンデールやジムナスティカ・デ・トレラベガといったクラブでプレーしたが、選手として大成することは出来ずに28歳で引退し、指導者になることを決めた[1]。監督として初めて指揮を執ったクラブは古巣のラシン・サンタンデールであり、1972年からはFCバルセロナカンテラであるラ・マシアで指導にあたった。

1975-76シーズン、バルセロナのトップチームではヘネス・バイスバイラーが監督としてシーズンを戦っていたが、第28節終了後に成績不振で解任された。そこで後任としてラ・マシアからラウレアーノ・ルイスが選出され、第29節から最終節までを暫定監督として指揮し、2位でシーズン終了を迎えた。その後はバルセロナのBチームやセルタ・デ・ビーゴ、ラシン・サンタンデールを率いてプロの指導者からは身を退いた。

監督業から引退後はカタルーニャ州のスポーツ局でスポーツの発展に寄与し、1987年からは地元カンタブリア州で育成組織の整備に奔走した[2]

脚注

  1. ^ El cántabro que cambió la historia del fútbol” (スペイン語). El Diario cantabria (2021年6月27日). 2023年10月15日閲覧。
  2. ^ El alcalde reconoce la labor de Laureano Ruiz al frente de la Escuela Municipal de Fútbol” (スペイン語). Europa Press (2011年6月18日). 2023年10月15日閲覧。

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