ヨーロッパ側の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 22:56 UTC 版)
「オトラントの戦い」の記事における「ヨーロッパ側の反応」の解説
コンスタンティノープルの陥落から未だ30年も経っていない時期である。イタリアの政治指導者たちはローマが同じ運命を被ることを真剣に考慮し、ローマ教皇とローマ市民を町から避難させる計画が練られた。ローマ教皇シクストゥス4世は1471年の十字軍召集を再び呼びかけ、いくつかのイタリアの都市国家とハンガリーとフランスがこれに積極的に応じた。だが、1479年にオスマン帝国と講和にこぎつけたばかりのヴェネツィア共和国は呼びかけを無視した。 翌年にナポリ王フェルディナンド1世によって彼の息子であるアルフォンソが率いる軍が起こされた。これにハンガリー王マーチャーシュの応援も加わり、オトラント奪還の見込みがついた。
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