ヤヌス・クソチンスキーとは? わかりやすく解説

ヤヌス・クソチンスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 17:45 UTC 版)

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獲得メダル

ヤヌス・クソチンスキー
ポーランド
陸上競技
オリンピック
1932 ロサンゼルス 男子10000 m
ヨーロッパ陸上選手権
1934 トリノ 男子5000 m

ヤヌス・クソチンスキー(Janusz Tadeusz Kusociński、1907年1月15日- 1940年6月21日)は、ポーランド陸上競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピックの男子10000m金メダリスト

経歴

クソチンスキーは、ワルシャワ鉄道員の家庭に生まれ、学校時代はワルシャワのいろいろなスポーツクラブに所属しサッカーを行っていたが、1928年に別のクラブに参加した時から陸上を始めた。そのクラブでは、エストニアの有名なデカスリートであるアレクサンドル・クルムベルグ=コルムペレから指導を受けていた。

クソチンスキーは初参加したポーランド選手権で、いきなり5000mとクロスカントリーを制して周囲を驚かせた。その翌年は徴兵のため出場できなかったが、戻ってきてからはさらに力をつけ、1930年のポーランド選手権では、1500m、5000mそしてクロスカントリーの3冠を達成。翌1931年も2年連続の3冠を達成した。

クソチンスキーは、1932年ロサンゼルスオリンピックの1ヶ月前に、3000mで8分18秒8の記録を出し、フィンランドパーヴォ・ヌルミの持っていた世界記録を破る。また4マイル走(約6,437m)でも、非公認ながら19分02秒6の世界新記録をたたき出し、好調なままオリンピックを迎えた。オリンピックでは10000mに出場。フィンランドのボルマリ・イソ=ホロラウリ・ヴィルタネンと激しい競り合いの末、シーズンベストの30分11秒4で金メダルを獲得した。

クソチンスキーは、1934年のヨーロッパ選手権の5000mで銀メダルを獲得した後、現役引退を決める。しかし、1939年にはポーランド選手権で復活し10000mで優勝した。

第二次世界大戦勃発後、クソチンスキーはポーランド軍に志願。ナチス・ドイツの攻撃で2度の負傷を負った後、1940年3月26日、AB行動中にゲシュタポによって捕らえられ、3ヵ月後にワルシャワ郊外のパルミリーにおいて殺害された。

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