マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルとは? わかりやすく解説

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マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 06:29 UTC 版)

マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル
Maria Teresa von Portugal
ブラガンサ家
マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル

称号 オーストリア大公妃
出生 (1855-08-24) 1855年8月24日
バイエルン王国クラインホイバッハ、レーヴェンシュタイン城
死去 (1944-02-12) 1944年2月12日(88歳没)
ドイツ国ウィーン
埋葬 ドイツ国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ
子女 マリア・アンヌンツィアータ
エリーザベト・アマーリエ
父親 ミゲル1世
母親 アーデルハイト・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク
宗教 キリスト教カトリック教会
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マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルMaria Teresa von Portugal, 1855年8月24日 - 1944年2月12日)は、オーストリア大公カール・ルートヴィヒ(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟)の3度目の妃。ポルトガル語名マリア・テレザ・デ・ブラガンサ(Maria Teresa de Bragança)。


生涯

ポルトガルの廃王ミゲル1世とその妃であるレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女アーデルハイトの次女としてクラインホイバッハで生まれた。父ミゲルは、姪にあたるポルトガル女王マリア2世と王位を争って敗北した経緯から、一家はオーストリア庇護下にあった。

1873年7月、18歳で40歳のカール・ルートヴィヒと結婚する。カール・ルートヴィヒはすでに2人の妃に先立たれており、この結婚は3度目だった。 夫であるカール・ルートヴィヒは、マリア・テレサにしばしば怒りと嫉妬を向け、この結婚生活はマリア・テレサにとって不幸なものであった。このような状況にもかかわらず、マリア・テレサは夫が2度目の妃マリア・アンヌンツィアータとの間にもうけた子どもたちを熱心に世話し、良き継母となった。フランツ・フェルディナント大公をはじめ、継子たちはマリア・テレサを慕ったという。

穏やかな気性のマリア・テレサは、義理の兄に当たる皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に好かれ、たびたび宮殿に呼ばれては老齢の皇帝の話し相手となっていた。のち、皇太子となったフランツ・フェルディナントが、身分の低い貴族出身であるゾフィー・ホテクと結婚するに当たり、激高した皇帝をなだめ、渋々ながら結婚に同意させたのは、マリア・テレサの仲介があったためとも言われた。

義理の孫の一人がのちの皇帝カール1世で、マリア・テレサの元を訪問していた時にカールが会ったのが、のちの皇后、パルマ公女ツィタ(マリア・テレサの妹マリア・アントニアの娘)であった。

子女





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