マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラとは? わかりやすく解説

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マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 02:55 UTC 版)

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マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ
M'. Valerius M. f. M. n. Maximus Messalla
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
氏族 ウァレリウス氏族
官職 執政官(紀元前263年)
ケンソル(紀元前252年)
指揮した戦争 第一次ポエニ戦争(紀元前263年)
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マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッララテン語: Manius Valerius Maximus (Corvinus) MessalaもしくはMessalla、生没年不明)は共和政ローマ中期の政治家、将軍である。紀元前263年執政官に選出され、第一次ポエニ戦争初期を戦った。

経歴

紀元前289年の執政官であるマルクス・ウァレリウス・マクシムス・コルウィヌスの子であり、伝説的な英雄であるマルクス・ウァレリウス・コルウスの孫にあたる。同僚執政官であるマニウス・オタキリウス・クラッススと共に、第一次ポエニ戦争開戦直後にシケリア(シチリア)でカルタゴシュラクサイを相手に勝利を収め、60以上のシケリアの殖民都市がシケリアにおけるローマの優位性を認めることとなった。両執政官はシュラクサイの僭主ヒエロン2世と平和条約を結び、ヒエロンの存命中はこの条約は守られた[1]。この条約はローマ、シュラクサイ双方に利益をもたらすものであった。マニウスのみが凱旋式を挙行することを許されている。

彼がメッセネ(現在のメッシーナ)の解放に成功したことを称えて、メッサッラのコグノーメン(第三名)が与えられた。その後800年にわたって、彼の一族はこの名前を名乗り続けていた。シケリアにおける彼の勝利を記念して、クリア・オスティリア元老院議事堂)の壁に絵が描かれたが、これはローマにおける歴史フレスコ画の最初の例となった。彼はまたカタナ(現在のカターニア)から日時計を持ち帰った最初の人物とされ、これはフォルム・ロマヌスに設置された。

マニウスは紀元前252年にはケンソル(監察官)に選出されたが、400人のエクィテス(騎士階級)をシケリアでの任務を無視したとして降格させている。

参考資料

  1. ^ Polybius, 1:17.6

関連項目

公職
先代:
アッピウス・クラウディウス・カウデクス
マルクス・フルウィウス・フラックス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前263年
同僚
マニウス・オタキリウス・クラッスス
次代:
ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス
クィントゥス・マミリウス・ウィトゥルス
公職
先代:
紀元前253年
デキムス・ユニウス・ペラ
ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス
ローマケンソル
紀元前252年 XXXVII
同僚
ルキウス・アエミリウス・パプス
次代:
紀元前247年 XXXVIII
アウルス・アティリウス・カラティヌス
アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス



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