ヘンリー・フレデリック_(カンバーランド公)とは? わかりやすく解説

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ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/13 10:09 UTC 版)

ヘンリー・フレデリック
Henry Frederick
カンバーランド・ストラサーン公
在位 1766年10月22日 - 1790年9月18日

出生 (1745-11-07) 1745年11月7日
グレートブリテン王国ロンドン、レスター・ハウス
死去 (1790-09-18) 1790年9月18日(44歳没)
グレートブリテン王国ロンドン、カンバーランド・ハウス
埋葬 グレートブリテン王国ウェストミンスター寺院
配偶者 オリヴィア・ウィルモント
  アン・ホートン
子女 オリヴィア
家名 ハノーヴァー家
父親 グレートブリテン王太子フレデリック・ルイス
母親 オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ
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ヘンリー・フレデリックHenry Frederick, Duke of Cumberland and Strathearn, 1745年11月7日 - 1790年9月18日)は、イギリスの王族。ジョージ3世の弟。

経歴

皇太子フレデリックと皇太子妃オーガスタの第6子(四男)として、レスター・ハウスで生まれた[1]

1766年10月、カンバーランド・ストラサーン公位とダブリン伯爵位を与えられた[1][2]

エドワード・オーガスタスと同様、海軍軍人となった。

1767年か1770年に聖職者ジェイムズ・ウィルモントの娘オリヴィア(- 1774年)と私的に結婚し、彼女との間に非嫡出子を2子儲けた。しかし1771年10月2日、初代カーハンプトン伯爵英語版シモン・ラットレル英語版の娘でクリストファー・ホートンの夫人であるアン・ホートン(1742年 - 1808年)と結婚し、二重結婚の疑惑をもたれた。彼の不適切な結婚が、1772年王室結婚法(ジョージ2世の子孫は、王の許可なしに結婚してはならないという内容)を触発することとなった[1]

1767年フリーメイソンに加入した[3]1782年から1790年にかけてはイングランド・首位グランド・ロッジ英語版グランドマスター英語版を務めた[4]

アンとの間に子のないまま、1790年にアンに先立ってロンドンの自邸で薨去した[2]

脚注

出典

  1. ^ a b c 森護 1994, p. 361.
  2. ^ a b Lundy, Darryl. “Henry Frederick Hanover, Duke of Cumberland” (英語). thepeerage.com. 2015年8月23日閲覧。
  3. ^ 湯浅慎一 1990, p. 106.
  4. ^ John Hamill, The Craft, a History of English Freemasonry, Crucible 1986, pp159-160

参考文献

ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)
ヴェルフ分家

1745年11月7日 - 1790年9月18日

フリーメイソン
先代
第4代マンチェスター公爵
イングランド・首位グランドロッジ
グランドマスター英語版

1782年1790年
次代
第2代モイラ伯爵
(グランドマスター代理)



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