ブランコ・イバンコビッチとは? わかりやすく解説

ブランコ・イバンコビッチ

(ブランコ・イヴァンコヴィッチ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 00:43 UTC 版)

ブランコ・イバンコビッチ
名前
ラテン文字 Branko Ivanković
基本情報
国籍 クロアチア
生年月日 (1954-02-28) 1954年2月28日(71歳)
出身地 ヴァラジュディン
身長 181cm
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1979-1990 NKヴァルテクス・ヴァラジュディン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ブランコ・イバンコビッチBranko Ivanković1954年2月28日 - )は、クロアチアチャコヴェツ出身のサッカー選手、サッカー指導者。

経歴

指導者として頭角を現したのは1998年フランスW杯で、ミロスラヴ・ブラジェヴィッチ監督の元でクロアチア代表のアシスタントコーチを務め、同代表チームを3位という大躍進に導いた。

その後、1999年ドイツに渡り、ハノーファーの監督を1シーズン務めた。2000年からはミルコ・ヨジッチ監督の元で、再度クロアチア代表のアシスタントコーチを務めた。

2001年イラン代表のコーチとなり、翌年2月に監督に指名される。在任7か月で一度退くが、2003年10月12日に再び就任し、ニュージーランド戦から指揮を執った。その後はU-23イラン代表監督などを歴任。 2006年ドイツW杯アジア予選ではアジア最強の攻撃力と破壊力を武器に快進撃を続け、最終予選では初戦のバーレーン戦でスコアレスドローという不穏な空気が漂ったものの、日本戦では攻守ともに冴えを見せて2-1で勝利を収め、波に乗った。そして、イラン代表としては2大会ぶり3度目の本大会出場へ導いた。しかし、本大会では1次リーグ1分2敗と不本意な結果に終わり、大会終了後に解任された。

帰国後、フロントと対立して解任されたヨシップ・クゼに代わり、ディナモ・ザグレブ監督に就任。リーグ連覇、国内リーグ28連勝とチームを国内で無敵のチームに育てあげた。また、UEFAカップではアヤックスに勝利するなど国際試合でも活躍をみせたがチーム作りをめぐりフロントと対立し、2008年1月に解任された。 しばらく、無職の状態が続いたものの、フロントと和解したことから2008年5月にディナモ・ザグレブの監督に復帰した。しかし、かつての強さを取り戻せず不安定な戦いが続いたことから12月に解任された。

2010年、中国リーグ山東魯能の監督に就任した。

2024年2月、中国代表監督に就任[1]。チームは、2026 FIFAワールドカップ大会出場権獲得を目指してアジア最終予選を戦ったが、グループCで10戦7敗の成績に終わり5位で敗退。プレーオフステージに進出できなかったため、契約は終了となった[2]

所属クラブ

指導歴

タイトル

監督時代

U-23イラン代表
イラン代表
NKディナモ・ザグレブ
山東魯能泰山足球倶楽部
ペルセポリスFC
個人

出典

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