フサイン (サイイド)
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フサイン(Ḥusayn、? - 1310年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えて地方官を歴任したムスリム(イスラム教徒)の官僚。漢字表記は忽辛。
概要
預言者ムハンマドの末裔を称するサイイドの名家の出身で、雲南の開発などで名高いサイイド・アジャッルの三男にあたる。
フサインはまず至元年間の初めにクビライの宿衛(ケシクテイ)に入ってその才能を認められ、1277年(至元14年)にまず兵部郎中の地位を授けられた[1]。1278年(至元15年)には河南等路宣慰使司同知とされ、このころ河南で頻発していた強盗の対策に従事した。フサインはそれまでの武力による鎮圧策を改め、使者を派遣して投降を促した。これを受けてまず来帰した賊2名にフサインは冠巾を与え、既に賊ではなく良民であると認めたことにより、賊の首魁たちも投降するに至ったという[2][1]。その後、1279年(至元16年)6月には中書左丞に任命されて中央の中書省に勤めた[3][4]。
1284年(至元21年)には雲南諸路転運使の地位を授かり、1285年(至元22年)には陝西転運使、1286年(至元23年)には燕南河北道宣慰使司同知・建康路総管、1293年(至元30年)には両浙塩運使を歴任した[1]。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位後、1297年(大徳元年)には江東道宣慰使の地位に進み、さらに陝西行台御史中丞を経て、雲南行省右丞として雲南に戻ることとなった[5][1]。
当初、フサインは宗王スンシャンの協力を得られず苦労したが、京師にまで赴いて皇帝(カアン)の聖旨(ジャルリク)を得たことで、それまでの悪政を改めることに着手できるようになったという[1]。例えば、豪民が徭役を避けるために王府の宿衛(ケシクテイ)に入ろうとする傾向があることに対し、フサインは宿衛の規模を3分の2に減らし、余った者たちは全て民戸とし徭役の対象としたとされる[6][1]。
また、サイイド・アジャッルの時代に建設された孔子廟は学校として利用されていたが、収入源である田が後に大徳寺のものとされていた。そこでフサインは田を孔子廟のものに戻し、また諸郡邑に廟学を立てて文学士の教官を置き、雲南における学問の振興に大きく寄与したという[7][8][9]。
またこのころ、広南西路に沙奴という剽悍な酋長がおり、南宋の時代に下賜された金印を有してモンゴルの支配を受け入れていなかった。そこでフサインは使者を派遣して沙奴を招き、丁重な礼儀でもってこれを歓待した。数カ月経ち、沙奴が本拠へ帰ることを請うと、フサインは南宋時代の金印を差し出すよう要求し、沙奴はやむを得ず金印を渡すに至った。フサインが金印を持って入覲すると、クビライは大いに喜んだという[10]。
一方このころ、ビルマのパガン王朝ではシャン人三兄弟によって国王ソウニッが傀儡とされており、このために1299年(大徳3年)にはモンゴル軍によるビルマ出兵が行われるに至った。このようにビルマ情勢は悪化していたが、1301年(大徳5年)にフサインはパガン王朝に使者を派遣し、両国関係の改善に務めている[11]。このフサインの外交は他の史料に見られないものであるが、『元史』緬国伝の末尾で大徳5年10月に緬国(パガン王朝)が入貢したとの記事があることが[12]、フサインの成果であると考えられている[13]。
1304年(大徳8年)には四川行省左丞、ついで江浙行省左丞の地位を務め[14]、クルク・カアン(武宗カイシャン)の即位後の1308年(至大元年)には栄禄大夫・江西行省平章政事の地位を拝命した[15]。しかし1309年(至大2年)には老母のために職を辞し、1310年(至大3年)正月に死去した。死後、1328年(天暦元年)に守徳宣恵敏政功臣・上柱国・雍国公の称号を追贈され、忠簡と諡された[16]。
息子には中慶路ダルガチの地位に至ったボルカン(伯杭)と、湖南道宣慰使の地位に至ったクルク(曲列)らがいた[17]。
サイイド・アジャッル家
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カマール・ウッディーン Kāmāl al-Dīn 苦馬魯丁 |
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サイイド・アジャッル シャムス・ウッディーン Sayyid Ajall Shams al-Dīn 賽典赤贍思丁 |
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マスウード Masʿūd 馬速忽 |
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シャムス・ウッディーン・ウマル Shams al-Dīn ʿUmar 苫速丁兀黙里 |
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フサイン Ḥusayn 忽辛 |
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ハサン Ḥasan 哈散 |
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ナースィル・ウッディーン Nāṣir al-Dīn 納速剌丁 |
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クルク Kürek 曲列 |
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ボルカン Borqang 伯杭 |
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バヤンチャル Bayančar 伯顔察児 |
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ウマル ʿUmar 烏馬児 |
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バヤン(アブー・バクル) Bayan(Abū Bakr) 伯顔 |
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エレシ Eleši 也列失 |
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脚注
- ^ a b c d e f 楊 2003, p. 253.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「忽辛、至元初以世臣子備宿衛、世祖善其応対。至元十四年、授兵部郎中。明年、出為河南等路宣慰使司同知。河南多強盗、往往群聚山林、劫殺行路、官軍収捕失利、忽辛以招安自任、遣土豪持檄諭之。未幾、賊二人来自帰、忽辛賜之冠巾、且諭之曰『汝昔為賊、今既自帰、即良民矣』。俾侍左右、出入房闥無間、悉放還、令遍諭其党。数日後、招集其為首者十輩来、身長各七尺餘、羅拝庭下、顧視異常、衆悉驚怖失措。忽辛命吏籍其姓名為民、俾随侍左右、夜則令臥戸外、時呼而飲食之、各得其歓心。群盗聞之、相継款附」
- ^ 『元史』巻10世祖本紀7、「[至元十六年六月]壬辰、以参知政事・行河南等路宣慰使忽辛為中書左丞、行中書省事」
- ^ 楊 2003, p. 242.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「二十一年、授雲南諸路転運使。明年、転陝西。又明年、授燕南河北道宣慰使司同知、尋除南京総管。三十年、授両浙塩運使。大徳元年、進江東道宣慰使、改陝西行台御史中丞、再改雲南行省右丞」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「既至、条具諸不便事言于宗王、請更張之、王不可、忽辛与左丞劉正馳還京師、有旨令宗王協力施行。由是一切病民之政、悉革而新之。豪民規避徭役、往往投充王府宿衛、有司不勝供給、忽辛按朝廷元額所無者、悉籍為民、去其宿衛三分之二。馬龍州酋謀叛、陰与外賊通、持所受宣勅納賊以示信、事覚、宗王為左右所蔽、将釈不問、忽辛与劉正反覆研鞫、反状尽得、竟斬之。軍糧支給、地理遠近不同、吏夤縁為姦、忽辛籍軍戸姓名及倉廩処所、為更番支給、吏姦始除」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「先是、贍思丁為雲南平章時、建孔子廟為学校、撥田五頃、以供祭祀教養。贍思丁卒、田為大徳寺所有、忽辛按廟学旧籍奪帰之。乃復下諸郡邑遍立廟学、選文学之士為之教官、文風大興。王府畜馬繁多、悉縦之郊、敗民禾稼、而牧人又在民家宿食、室無寧居。忽辛度地置草場、搆屋数十間、使為牧所、民得以安」
- ^ 宮 2018, p. 654.
- ^ 楊 2003, p. 254.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「広南西酋沙奴素強悍、宋時嘗賜以金印、雲南諸部悉平、独此梗化。忽辛遣使誘致、待之以礼、留数月不遣、酋請還、忽辛曰『汝欲還、可納印来』。酋不得已、齎印以納、忽辛置酒宴労、諷令偕印入覲、帝大悦」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「大徳五年、緬国主負固不臣、忽辛遣人諭之曰『我老賽典赤平章子也、惟先訓是遵、凡官府于汝国所不便事、当一切為汝更之』。緬国主聞之、遂与使者偕来、献白象一、且曰『此象古来所未有、今聖徳所致、敢効方物』。既入、帝賜緬国主以世子之号。烏蛮等租賦、歳発軍徴索乃集、忽辛以利害榜諭諸蛮、不遣一卒、而租賦咸足。俄有為飛語及符讖以惑宗王者、忽辛引劉正密為奏馳報、朝廷遣使臨問、凡造言之徒悉誅之、忽辛偕使者還覲」
- ^ 『元史』巻210列伝97外夷3緬国,「[大徳]五年……十月、緬遣使入貢」
- ^ 楊 2003, p. 261.
- ^ 楊 2003, p. 274.
- ^ 楊 2003, pp. 246–247.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「大徳八年、出為四川行省左丞、改江浙行省。至大元年、拝栄禄大夫・江西行省平章政事。明年、以母老謝職帰養。又明年正月卒。天暦元年、贈守徳宣恵敏政功臣・上柱国・雍国公、諡忠簡」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「子二人。伯杭、中慶路達魯花赤。曲列、湖南道宣慰使」
参考文献
- 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝
- 『新元史』巻155列伝52賽典赤贍思丁伝
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 楊志玖『元代回族史稿』南開大学出版社、2003年。 NCID BA62094153 。
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